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#1472 その三は、いまだ帰ってこない旦那を心配するところから……

それでは今日も幸田露伴の『五重塔』を読んでいきたいと思います。

今日から「其三」に入ります。それでは早速読んでいきましょう!

其三

世に栄[サカ]え富める人々は初霜月[ハツシモツキ]の更衣[ウツリカエ]も何の苦慮[クルシミ]なく、紬[ツムギ]に糸織[イトオリ]に自己[オノ]が好き/″\の衣[キヌ]着て寒さに向ふ貧者の心配も知らず、やれ炉開[ロビラ]きぢや、やれ口切[クチキリ]ぢや、それに間に合ふやう是非とも取り急いで茶室成就[シアゲ]よ待合の庇廂[ヒサシ]繕[ツクロ]へよ、夜半[ヨハ]のむら時雨[シグレ]も一服やりながらで無うては面白く窓撲[ウ]つ音を聞き難しとの贅沢いふて、木枯[コガラシ]凄[スサマ]じく鐘の音[ネ]氷るやうなつて来る辛き冬をば愉快[ココロヨ]いものかなんぞに心得らるれど、其[ソノ]茶室の床板[トコイタ]削りに鉋[カンナ]礪[ト]ぐ手の冷えわたり、其[ソノ]庇廂[ヒサシ]の大和[ヤマト]がき結[ユ]ひに吹きさらされて疝癪[センシャク]も起[オコ]すことある職人風情は、何[ドレ]ほどの悪い業を前の世に為[ナ]し置きて、同じ時候に他[ヒト]とは違ひ悩め困[クル]しませらるゝものぞや、取り分け職人仲間の中でも世才[セサイ]に疎[ウト]く心好[ココロヨ]き吾夫[ウチノヒト]、腕は源太親方さへ去年いろ/\世話して下されし節[オリ]に、立派なものぢやと賞められし程確実[タシカ]なれど、寛濶[オウヨウ]の気質[キダテ]故[ユエ]に仕事も取り脱[ハグ]り勝[ガチ]で、好[ヨ]い事は毎々[イツモ]他[ヒト]に奪[ト]られ年中嬉しからぬ生活[クラシ]かたに日を送り月を迎ふる味気無さ、膝頭の抜けたを辛[カラ]くも埋め綴[ツヅ]つた股引[モモヒキ]ばかり我が夫に穿かせ置くこと、婦女[オンナ]の身としては他人[ヨソ]の見る眼も羞[ハズ]かしけれど、何[ナニ]も彼[カ]も貧が為[サ]する不如意に是非のなく、今[イマ]縫ふ猪之[イノ]が綿入れも洗ひ曝[ザラ]した松坂縞[マツザカジマ]、丹誠[タンセイ]一つで着させても着させ栄[ハ]えなきばかりでなく見[ミ]とも無いほど針目勝[ハリメガ]ち、それを先刻[サッキ]は頑是[ガンゼ]ない幼心[オサナゴコロ]といひながら、母様[ハハサマ]其衣[ソレ]は誰がのぢや、小さいからは我[オレ]の衣服[ベベ]か、嬉[ウレシ]いのうと悦んで其儘[ソノママ]戸外[オモテ]へ駈け出[イダ]し、珍らしう暖い天気に浮かれて小竿[コザオ]持ち、空に飛び交ふ赤蜻[アカトンボ]を撲[ハタ]いて取らうと何処[ドコ]の町まで行つたやら、嗚呼考へ込めば裁縫[シゴト]も厭気[イヤ]になつて来る、せめて腕の半分も吾夫[ウチノヒト]の気心が働いて呉れたならば斯[コウ]も貧乏は為[シ]まいに、技倆[ワザ]はあつても宝の持ち腐れの俗諺[タトエ]の通り、何日[イツ]其[ソノ]手腕[ウデ]の顕[アラワ]れて万人の眼に止まると云ふことの目的[アテ]もない、たゝき大工[ダイク]穴鑿[アナホリ]大工、のつそりといふ忌々[イマイマ]しい諢名[アダナ]さへ負[オウ]せられて同業中[ナカマウチ]にも軽[カロ]しめらるゝ歯痒さ恨めしさ、蔭[カゲ]でやきもきと妾[ワタシ]が思ふには似ず平気なが憎らしい程なりしが、今度はまた何[ドウ]した事か感応寺に五重塔の建つといふ事聞くや否や、急にむら/\と其仕事を是非為[シ]する気になつて、恩のある親方様が望まるゝをも関はず胴慾[ドウヨク]に、此様[コノヨウ]な身代[シンダイ]の身に引き受けうとは、些[チト]えら過ぎると連添ふ妾[ワタシ]でさへ思ふものを、他人[ヒト]は何[ナ]んと噂さするであらう。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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