それでは今日も幸田露伴の『五重塔』を読んでいきたいと思います。
源太は風呂敷包みを取り、結び目といて、十兵衛の前に置きます。なかには、材木や人足の費用、下絵図や平面図、欄干・垂木・桝・肘木に関する算法、先祖の遺品や秘蔵の絵図まで……。「これらは皆きさまに預ける。なにかの足しにもなろう」。しかし十兵衛は「ひとの巾着で我が口を濡らすようなことは好まず、親方まことにありがとうござりまするが、これはそちらにお納めを……」。「きさまは要らぬというのか」と怒りを底に隠して問うと、そんな様子に気づかず十兵衛は「別段拝借いたしても……」とうっかり答えてしまい、源太は堪りません。「親切の上に親切を尽くして絵図までやろうというものを、無下に返すのか!人の情けを無にするか!これをやって源太が恩がましく思うと思ったか!開けて見もせず覗きもせず、知れ切ったるといわぬばかりに愛想もなく要らぬとは!おのれ十兵衛、よくも拒絶したな!もう堪忍の緒も切れたり!今までは口もきいたがもうきかぬ!
「車懸り」とは車の車輪が回転するように攻撃する陣形のこと、「巴」は勾玉のような文様で、これが三つ、円形に配されると「三つ巴」となるので、「酒や猪口をとめどなく次から次へと」という意味ですね。
今は「ねずみ花火」というのが一般的ですね。
潮来地方の民謡「潮来節」のなかに「潮来出島のまこもの中にあやめ咲くとはしほらしや」とあります。
「甚句」とは、七・七・七・五の4句形式の民謡で、越後甚句・米山甚句・名古屋甚句・博多甚句などがあります。
「かっぽれ」は大阪の住吉神社の御田植神事[オタウエシンジ]に由来し、この奉納された踊り(住吉踊り)が伊勢で「伊勢音頭」となり全国的に普及し、江戸でも流行したといわれています。天保年間に江戸で住吉踊りが禁じられた際、同時期に流行っていた紀伊の民謡「鳥羽節」を取り入れて、新たな大道芸・お座敷芸としての「かっぽれ」が誕生したといわれています。
「木遣」とは、重い材木などを運ぶときに音頭をとる「木遣歌」のことで、のどをつぶしたような声で歌います。
『平家物語』巻第十の六「海道下[カイドウクダリ]」には「北には青山峨々[ガガ]として、松吹く風索々[サクサク]たり」という一文があります。
「拳も下卑て……臍の下に紙幕張る」とは、まぁ言ってしまえば……野球拳で女性がすっぽんぽんになったということですねw
なんか……いっこうに、五重塔の建築に話が進みませんねw
というところで、「その二十二」が終了します。
さっそく「その二十三」を読んでいきたいと思うのですが……
それはまた明日、近代でお会いしましょう!