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#1592 靴がない!帰る奴があるものか!

それでは今日も尾崎紅葉の『多情多恨』を読んでいきたいと思います。

柳之助は葉山の妻であるお種が苦手ですが、勇気を出して盃を差し、酌をします。それを葉山がからかいます。やがて肴を取りに行くと言ってお種が起ったので、やれ嬉しやと「ぼくはどうも窮屈でいかん、ぼくは困る」と言います。「何が困るのだ」「細君がいちゃ困る」「なぜそんなにイヤなのだろう」「理由はないけれど僕の性質なのだから」「どうあってもイヤだというなら仕方がない」「イヤじゃない、決してイヤではない!窮屈でな」「その窮屈がわからないよ」「細君の前で今のことを言っちゃ困るよ」。お種が来ると柳之助は起ちあがります。お種が「どうなすったのです」と問うと、「からかったのよ」「なにをからかいなすって?」「お前が出ていると窮屈で困るというから」「私がいると窮屈ですって?じゃ下へ参りますから」「下へ行ったら鷲見を寄こしてくれ」

お種は下りて茶の間へ入つた。姑[シバラ]く待てど、何処からも出て来ぬ。二階で手が鳴るから、早速行くと、葉山は気の抜けた顔をして、
「如何[ドウ]した、如何した。」
「未[マ]だ出ていらつしやらないのですよ。」
「長いね。」
「お長うございます。」
「長い!廊下から呼むで見な。」
又下りてお種は廊下から、
「鷲見さん、鷲見さん。」
一向返事がない。お種は考へて、玄関へ行つて見ると、靴が無い!急足[イソギアシ]に二階へ昇[アガ]つて、
「貴方[アナタ]、御帰去[オカエン]なすつたやうですよ。」
「何[ナニ]帰る奴があるものか。其処[ソコ]に帽子があるだらう。」
果然[ナルホド]帽子は在る。
「煙管[パイプ]が在るし、手巾[ハンケチ]が在る、尤も是は乃公[オレ]のだけれど。それに彼[アレ]は茶碗蒸が所好[スキ]だから、帰りはしない。」
「それでも、貴方、靴が在りませんもの。」
「靴が無い!靴だから歩いて行つた、と云ふ洒落でもなからう。」
坐を起[タ]つて葉山も捜索[サガシ]に下りたが、家[ウチ]の内には何処にも居[オ]らぬと極[キマ]つたので、
「それぢや帰つたかな。兜を委[オ]いて遁[ニ]げるとは卑怯な奴だ。台所の者に聞いて見な。」
お種は婢[オンナ]に訊[タズ]ねたが、一向知らぬと言ふ。余り出意表[ハナレワザ]なので葉山も呆気[アッケ]に奪[ト]られて、椽側[エンガワ]に突立[ツッタ]つてゐる。
「貴方、お帰去[カエン]なすつたのですよ。」
「どうも然[ソウ]だらう。姿が見えなくて靴が無いのだから、まづ確[タシカ]だ。」
「変な方ですね。」
「余程変さ。」

というところで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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