それでは今日も幸田露伴の『五重塔』を読んでいきたいと思います。
清吉は遠慮も忘れて、盃を重ねて、赤ら顔をさらに赤くして、朋輩の噂、朋友の失策した話などしゃべっているうち、とろりとなった眼を急に見張って、「一体あんな馬鹿野郎を親方がかわいがる理由が私にはわかりません」と十兵衛に対する愚痴を始めます。「仕事といえば馬鹿丁寧で、かんなを三度もとぐようなノロマな奴。なにをひとつ頼んでも間に合ったためしがない。第一、あいつはつきあい知らずでシャモ鍋つつきあったこともない。いつか大師へみんなで行く時も、『おれは貧乏で行かれない』と言ったきりの挨拶。愛想も義理も知らなすぎるではありませんか。ガキのころから親方の手についていた私とちがって、奴は渡り者。私より人一倍深く親方を有難い、かたじけないと思ってなければならぬはず。親方、姉御、私は悲しくなってきました」。
「黒煙の煽りを食っても飛び込む」とは、「火の中にでも飛び込む」という意味です。
「腹に戸締のない」とは、言わなくていいことも弁えない、という意味です。
「三の切」とは、義太夫節で三段目の終わりの語り場のことです。全編の山場のところで、もっとも悲哀が色濃い場面です。一座の最高位の太夫が語るところであり、講談でもいちばん盛り上がるところです。
伯龍は、神田伯龍のことで、講釈師の名跡にして神田派の開祖です。初代伯龍(生没年不詳)は、神田辺羅坊寿観[ベラボウスカン](生没年不詳)の弟子で、享保(1720-1730頃)のころ、大名旗本の邸に招かれ、軍事軍談を読み、大いに評判を得たといわれています。二代目伯龍から名跡を継いだ桜井清三郎(生没年不詳)はその後大阪に拠点を移して活動します。これによって、桜井を大阪初代神田伯龍として大阪で襲名が続きますが、江戸の松村伝吉(1856-1901)が大阪に権利が移っていたことを承知の上で三代目伯龍を名乗ります。秋元格之助(1873-1925)が江戸四代目神田伯龍を襲名したのは1903(明治36)年のことです。『五重塔』が連載されたのは1891(明治24)年のことですので、おそらくここでいう伯龍とは、江戸三代目伯龍の松村伝吉のことかと思われます。講釈では、光秀を憎んだ信長が、小姓の蘭丸に鉄扇を渡して、蘭丸が「上意でござる」と言って光秀の頭を叩いたり、光秀の領地を取り上げて蘭丸に与える場面が出てきます。
というところで、「その十七」が終了します。
さっそく「その十八」を読んでいきたいと思うのですが……
それはまた明日、近代でお会いしましょう!