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#1536 一期の大事、死生の岐路

それでは今日も幸田露伴の『五重塔』を読んでいきたいと思います。

「さあ十兵衛!今度は是非に来よ!上人様の御召しじゃぞ!」。十兵衛、それを聞いて落胆します。「ああ情けない。この十兵衛の一心かけて建てたものを脆くも壊れるように思し召されたのが口惜しい。神とも仏とも思っていた上人様にも我が腕をたしかと思われざりしか。もう十兵衛の生き甲斐なし。嵐が吹けば丹精凝らしたあの塔も倒れるんじゃないかと疑うとは腹が立つ。それほどおれは腑の無い奴か。ええくやしい。命ももういらぬ。体にも愛想の尽きた。世の中から見放された十兵衛は生きているだけで恥をかく苦しみを受ける。いっそのこと、塔も倒れよ!嵐もこのうえ烈しくなれ!空吹く風も土打つ雨も人間ほど我につれないのならば、塔を壊されても倒されても喜びこそすれど恨みはしない。一度はどうせ捨てた身の捨て所よし、捨て時よし。諸仏菩薩もお許しあれ。五重塔のてっぺんよりただちに飛んで身を捨てよう。あわれ男の一本気」。夢路を辿り、いつのまにか七蔵とも別れ、ここは、おお、それ、五重塔なり!

上りつめたる第五層の戸を押明けて今しもぬつと十兵衞半身あらはせば、礫[コイシ]を投ぐるが如き暴雨の眼も明けさせず面[オモテ]を打ち、一ツ残りし耳までも扯断[チギ]らむばかりに猛風の呼吸[イキ]さへ為[サ]せず吹きかくるに、思はず一足[ヒトアシ]退[シリゾ]きしが屈せず奮[フル]つて立出でつ、欄[ラン]を握[ツカ]むで屹[キッ]と睥[ニラ]めば天[ソラ]は五月[サツキ]の闇より黒く、たゞ囂々[ゴウゴウ]たる風の音のみ宇宙に充[ミチ]て物騒がしく、さしも堅固の塔なれど虚空に高く聳えたれば、どう/\どつと風の来る度ゆらめき動きて、荒浪の上に揉まるゝ棚無し小舟のあはや傾覆[クツガエ]らむ風情、流石[サスガ]覚悟を極めたりしも又今更におもはれて、一期[イチゴ]の大事[ダイジ]死生[シセイ]の岐路[チマタ]と八万四千の身の毛竪[ヨダ]たせ牙[キバ]咬定[カミシ]めて眼[マナコ]を睜[ミハ]り、いざ其時[ソノトキ]はと手にして来し六分鑿[ロクブノミ]の柄[エ]忘るゝばかり引握[ヒッツカ]むでぞ、天命を静かに待つとも知るや知らずや、風雨いとはず塔の周囲[メグリ]を幾度となく徘徊する、怪しの男一人ありけり。

というところで、「その三十四」が終了します。

次回はいよいよ最終回!「その三十五」を読んでいきたいと思うのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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