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#616 ちょっとだけオルガンの話

山田美妙の『花ぐるま』には、こんな一文があります。

風琴[オルガン]の音[ネ]を聞けば教会が想出[オモイダ]され、また碇[イカリ]を見れば航海の事が心に浮[ウカ]ぶ…

1886(明治19)年、明治政府は小学校令を出し、全国に共通の尋常小学校が設置されると、唱歌科が設けられるとともに、輸入品の風琴(オルガン)を購入し設置し始めました。役人の給料が2、3円の時代に、輸入オルガンは一台45円もする高級品でした。

1887(明治20)年7月15日、浜松尋常小学校で、その高級なオルガンが壊れてしまいます。その修理を請け負ったのが、山葉寅楠(1851-1916)でした。当時の公務日誌には、「本校備付オルガン破損せしにより機械師を招き之を修理せしむ」と書かれてあります。医療機器の修理技術を持っていた山葉は、オルガンの故障が2本のバネにあると見抜き、交換することで修理しました。山葉は、初めて見るオルガンの構造図を書き取り、自分でも作ろうと決意します。2か月後、オルガン一台が完成し、 山葉は、1887(明治20)年に設立された唯一の官立音楽専門学校である東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)へオルガンを運び、音楽取調掛で調律審査を受けましたが御用掛の伊澤修二(1851-1917)の評価は、「調律が不正確」というもので不合格でした。改めて音階の専門知識を学び、再度オルガンを製作して、ついに専門家が太鼓判を押す一台を完成させました。

その8年前の1879(明治12)年、日本の音楽教育に関する調査研究・教員養成を目的として、文部省に音楽取調掛が設立されます。その御用掛となった伊澤は、1875(明治8)年から1878(明治11)年の間にアメリカへ留学し、そこで音楽教育者のルーサー・ホワイティング・メーソン(1818-1896)と出会い、音楽教育を教わります。

伊澤は1879(明治12)年に東京師範学校(現・筑波大学)の校長となり、音楽取調掛に任命されるとメーソンを招きます。このメーソンが来日した時にピアノ10台とともにフェルディナント・バイエル(1803-1863)の『ピアノ奏法入門書』20冊が持ち込まれました。この教書で学んだ伝習生たちが指導者としてバイエルを全国に広め、以後150年、日本の音楽教育に根付くことになります。その後、伊澤は1888(明治21)年、東京音楽学校の校長となります。

同じ年の1888(明治21)年、山葉は山葉風琴製造所を設立し、本格的にオルガン製作をスタートさせます。1897(明治30)年には日本楽器製造株式会社に改組し、1900(明治33)年には国産第一号のピアノが完成します。この日本楽器製造株式会社が、のちのヤマハ株式会社です。

オルガンは全国の教育機関に急速に普及し、明治末期には、全国の小学校3万3000校の85%に、オルガンが設置されたそうです。

ということで、再び『花ぐるま』に戻りたいのですが…

また明日、近代でお会いしましょう!


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