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#1611 当分泊まっていってもらうわけにはいかんですか!
それでは今日も尾崎紅葉の『多情多恨』を読んでいきたいと思います。
柳之助の義母に対する感情は、多少の遠慮や隔てはないではないが、始終世話になるので、よそよそしくは思われない。今後は、半分は葉山の意見、半分は義母の料簡を聞かねばならぬくらいに考えている。お類は手に余ることがあると、都度母親を呼び立てて、その保護を受けていた。柳之助は世間知らずであるから、お類も母親を頼みにして賄っていたのであるが、そんなことも柳之助は詳しく知らずにいたのである。義母はいつまでもお類を子供のように思って、その子供に世話される柳之助は子ではないが他人ではない、婿という地位にいて愛おしがられる。柳之助も、お類の病中の世話から亡き後の始末まで、自分と同じように悲しんで泣いたのを見てから、頼もしく思う義母の訪問は、何にも代え難く心嬉しいのである。嬉しくは思いながら、お島という例の他人が傍にいるので、柳之助は気詰まりそうにまじまじしている。義母は柳之助の顔をみて「どこかお悪いのですか?」と訊ねます。「いいえ、べつに……」「たいへんお痩せなすったよ」「毎日どうも不愉快でいけません」「そのせいですよ。外へ出ると気が紛れていいものですから、おいやでも無理にご出勤なさいましよ」「出ようとは思うです」「思うばかりじゃいけませんね」「朝になって行こうとするとイヤになって」「それじゃなんにもなりませんね。当分の内でも来ていてあげたいのですけれど……」「それはいいですな!来ていてください。おうちのほうはどうかなるでしょう」「どうもねえ」と義母はお島を見ます。お島も「そうねえ」と見返すばかり。老婢から「掃除が出来ましたからどうぞ二階へ」と言われ、二階へと移動します。「世話をしてあげる人がなくては不都合ですねえ」。柳之助は答えます。「不都合ですとも!お類の病中はあなたが世話をして下すった。しかし死んでしまったです。死んでくれては実に困るです。こんな困ったことはないです。もう一遍逢いたいですな」と言って泣き出します。
「もう/\其[ソノ]話は舎諸[ヨシ]ませう。貴方も諦めて下さい、よう、過ぎた事は為方[シカタ]がありませんから。何でも気を引立[ヒッタ]てゝ、身體[カラダ]が大事ですよ。つまらない事を考へて病[ワズラ]ひでもすると可[イ]けません。」
まだ/\泣きたいのを怺[コラ]へて、母親は涙を払つて見せる。
「類の事を考へてゐながらも、今日のやうに貴方がたが居られゝば、未[マ]だ幾分か心強いです。唯[タダ]一人で考へ出す時は、実に其[ソレ]は耐[タマ]らんですね。」
「ですから単独[ヒトリ]は可[イ]けません。」
又母親は単独[ヒトリ]で置かぬ工夫を案じてゐる。
「貴方は当分泊[トマ]つて居つてもらふ訳[ワケ]には行[ユ]かんですか。」
「それが、ね……。」
「然[ソ]うすると非常に好都合ですけれど。」
「それでは、ね……。」
とやう/\母親が言出[イイダ]すと、柳之助は勢[イキオイ]好[ヨ]く話の方に顔を向ける。
「如何[ドウ]にか都合をして何[ナニ]しますから、明日はまあ御墓詣[オハカマイリ]をして、明後日[アサッテ]から学校の方へ御出[オデ]なさいますか。」
「出ませう!」と柳之助は一層勢付[イキオイヅ]く。
「お出[デ]なさる?なら左[ト]も右[カク]も都合をして、……。」
「来[キ]とつて下さるか。」
「えゝ、可[ヨ]うございます。」
「これは難有[アリガタ]い!」
まづは愁[ウレイ]の眉[マユ]も展[ノ]びて、菓子が出る、旋[ヤガ]て午餉[ヒル]の膳が出る。是から日の暮れるまで唯[タダ]坐[スワ]つてゐるのも退屈、幸ひ天気は快[ヨ]し、珍しく然[サ]ほどは風は起[タ]たぬから、明朝[アシタ]と云はず、今から墓詣[ハカマイリ]をしては、と急に話が着いて、一時といふ頃、三台の車を聯[ツラ]ねて、谷中[ヤナカ]へ走らせたのである。
上野辺[アタリ]の一寸[チョット]した所で晩の支度をして、点燈頃[ヒトモシゴロ]に帰つて来たが、其夜[ソノヨ]は久しぶりで二階の灯[アカシ]も下の灯[アカシ]も曠[ハレヤ]かに、台所も静[シズカ]に犇[ヒシメ]き、闇の木戸の開閉[アケタテ]も聞えて、それが一時[ヒトシキリ]鎮[シズマ]ると、物の響[ヒビキ]は幽[ユカ]しい琴の音[ネ]となつて、糸の調[シラベ]が絶えれば話声[ハナシゴエ]がして、話声が歇[ヤ]めば又[マタ]爪音[ツマオト]が姑[シバラ]く続いて、十時前まで閑[シメヤ]かに歓楽[タノシミ]を尽す気勢[ケハイ]がした。
というところで、「その五」が終了します。
このあと、「その五の二」へと続くので、読んでいきたいと思うのですが……
それはまた明日、近代でお会いしましょう!