それでは今日も尾崎紅葉の『多情多恨』を読んでいきたいと思います。
夜のうちに雨がやんだ空は朗らかで、葉山は新聞を読んでいます。そばには、ブリキのラッパや食いかけのビスケットが散らかって、男の子が遊んだとみられる光景。しずかに襖を開けて入って来る者があるので、葉山は俯いたまま「面白い事があるぜ、ありがたい」というと、それは細君ではなく父親。「なにがそんなにありがたいことがあるえ」「なあに、ありがたいと思ったら、なんでもなかったのでした。こんど『おとっさん』というと『かかあ』が現れるだろう」。すると「なにを笑っておいでなさる」とお種が入ってきます。お種がせっせと支度をして湯を注す段になり、葉山が「おとっさんの湯呑みは?」と聞くと「今しがた髭を剃りに」「朝っぱらからおめかしだな。しかし可哀そうなことをしたよ」「なにがです?」「お類さんよ。鷲見が可哀そうだ。目もあてられない」「それが本当の夫婦の情合なのでしょう」「おれなんぞはどっちのくちだ。ほんとうのくちか、まぁのくちか」。お種にとっては、こういう無駄口をたたくのがうるさくてならぬのである。堂々たる男子であり、一家の主人であり父でありながら、こういう愚にも付かぬことを言って喜んでいるのか気が済まない。男とは、自分の父親のように、真面目に怖い顔をして、威厳を保つべきだと信じている。母親は父親に対して神に仕えるように恭順であるのを見ていた。お種はそれを手本にしているから、妻は妻たる本分を守らねばと料簡している。
ということで、この続きは……
また明日、近代でお会いしましょう!