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#1209 歌舞伎座の落ち着きのないお客さん

それでは今日も尾崎紅葉の『三人妻』を読んでいきたいと思います。

近頃暇になったお才は三味線持っても冴えず、茶事をしても飽き、華をやっても慰みにならずの状態です。新聞をみると、歌舞伎座の夜芝居が開場以来大入りであるとのこと。これぞという贔屓もないが、涼しい日にふと思い立ちます。話し相手がなくては興薄しということで、お艶を誘います。花見のあと一度も会っていないが、寂しく便りのない身のため殊の外喜び、歌舞伎見物を快く受けます。昼の二時開場で、中は暑さ蒸すばかりの大入り。お才はほかのお客を見物します。浴衣を着ている唐人髷の娘は装っていないが美しい。華族と思われる人の衣装や持ち物は疎かではない。官吏と思しき男は肺病ありげで白く細く十八九の娘のごとし。幕間に立って行き、涼しげな紺の浴衣に着替えて、茶屋の女房などに見送られて入ってきます。

彼男[カノオトコ]は幕の開[ア]きかゝるにも関[カマ]はず、また升[マス]を飛出[トビイ]だして、仮花道[カリハナミチ]の口より鶉[ウズラ]の様子を窺[ウカガ]ひて、霎時[シバラク]佇[タタズ]むを制せられ、階子[ハシゴ]を昇りて三階の運動場[ウンドウバ]に、銘酒[メイシュ]売る店の椅子に腰掛け、欲しくも無きしやんぱんを一盃[イッパイ]取[トリ]て、巻紙[マキガミ]硯箱[スズリバコ]を借り、四辺[アタリ]に人の在[ア]らざるを幸[サイワ]ひに、仮名にて細かく認[シタタ]め、引結[ヒキムス]びて手の中[ウチ]に蔵[カク]るゝほどの文[フミ]にして袂[タモト]に入[イ]れ、此[コノ]幕は見ぬ気にて悠々[ユルユル]酒を飲み、後[アト]は氷らむね、胸の清[ス]くはずの水も痞[ツカ]へて、半分にして立ちぬ。場所へは還らず、拍子木[ツケ]の音を余所[ヨソ]に聞きて、例のごとく思ひある方[カタ]を望み、折々は舞台を覗きて、此[コノ]幕の長さに待遠[マチドオ]なる顔色[カオツキ]。

1853(嘉永6)年、東インド艦隊が浦賀に来航した際、ペリー提督は幕府の役人が乗り込んだ際、浦賀奉行香山栄左衛門(1821-1877)らにフランス産シャンパーニュを振る舞ったという事実が文献に残されています。1883(明治16)年に鹿鳴館が落成した夜会でもシャンパンが振る舞われ、次第に牛鍋屋でもシャンパンを飲むことができるようになりました。しかし、日本酒の10倍以上の値段だったそうです。

ラムネの製造は長崎→神戸→東京の順に伝わったといわれています。1865(慶応元)年に長崎の商人・藤瀬半兵衛がラムネの製造を学び、レモン水と名づけて販売します。その後、レモネードが訛った「ラムネ」という名称が一般化します。1872(明治5)年5月4日、日本人に初めてラムネ製造の許可が下り、歌舞伎座の金主となった千葉勝五郎(1833-1903)がラムネの製造販売の許可を取得します。1874(明治17)年に大阪で初めてラムネの製造をしたのは洋酒の製造に従事していた橋本清三郎であるといわれ、1890(明治33)年、東京本所の洋水社により日本人によるラムネの商業化がされ各地で製造が行われるようになります。当初はコルク栓でしたが、ビー玉栓のラムネ瓶は、1872(明治5)年にイギリスのハイラム・コッド(1838-1887)によって開発され、翌年にはアメリカで特許が取られました。日本では、特許権が切れた1888(明治21)年に、大阪で徳永玉吉が創業した徳永硝子が製造したのが最初だといわれています。『三人妻』が連載されている明治25年頃、ラムネは3~5銭で販売されていました。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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