#1206 後編第七章は、暇を持て余したお才が歌舞伎座に行くところから……
それでは今日も尾崎紅葉の『三人妻』を読んでいきたいと思います。
今日から「後編その七」に入りますよ!それでは早速読んでいきましょう!
『三人妻』が連載されたのは1892(明治25)年、その3年前の1889(明治22)年に東京市京橋区木挽町に開場したのが「歌舞伎座」です。#044や#045で紹介した福地桜痴(1841-1906)と金融業者の千葉勝五郎(1833-1903)が演劇改良運動の流れを受けて共同経営で開設されました。演劇改良運動に関しては、#600や#647で少しだけ紹介しています。座頭に九代目市川団十郎(1838-1903)を招きますが、活歴物が振るわず客足が鈍り、歌舞伎に立ち返った1893(明治26)年の『勧進帳』で人気を博し、五代目尾上菊五郎(1844-1903)、初代市川左団次(1842-1904)らとともに「團菊左」と呼ばれ明治歌舞伎の黄金時代を築きました。ここでいう「高慢なる勤王論」とは、1892(明治25)年5月28日から上演され、九代目団十郎の当たり芸となった活歴物の『太鼓音智勇三略[タイコノオトチユウノサンリャク](酒井の太鼓)』のことでしょうか。
三好屋は歌舞伎の屋号で、おそらく七代目市川團蔵(1836-1911)のことかと思われます。
#860でも説明しましたが、「酢豆腐」は落語の演目で、気取り屋の若旦那が、腐って酸っぱくなった豆腐を食べさせられますが、苦しみながらも知ったかぶりをして「これは酢豆腐といいます」と答えるところから、「知ったかぶり、半可通」という意味があります。
ということで、この続きは……
また明日、近代でお会いしましょう!