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#310 いよいよ「小説」について論じます!
さて今日も、難解極まる、二葉亭四迷の『小説総論』を読んでいきたいと思います。今日は、ひとまず、最後まで読んでみたいと思います。理由のひとつは、この『小説総論』は、逍遥の『小説神髄』に比べて難解度は極めて高いのですが、文章は極めて短いからです。ふたつめは、いよいよ「小説」に関する論説が行なわれるからです。
小説に勧懲摸写の二あれど、云々の故に摸写こそ小説の真面目なれ。さるを今の作者の無智文盲とて古人の出放題に誤られ、痔持の療治をするように矢鱈無性に勧懲々々というは何事ぞと、近頃二三の学者先生切歯[ハガミ]をしてもどかしがられたるは御尤千万とおぼゆ。主人の美術定義を拡充して之を小説に及ぼせばとて同じ事なり。抑々小説は浮世に形[アラ]われし種々雑多の現象(形)の中にて其自然の情態(意)を直接に感得するものなれば、其感得を人に伝えんにも直接ならでは叶わず。直接ならんとには摸写ならでは叶わず。されば摸写は小説の真面目なること明白なり。夫の勧懲小説とは如何なるものぞ。主実主義(リアリズム)を卑んじて二神教(ヂュアリズム)を奉じ、善は悪に勝つものとの当[アテ]推量を定規として世の現象を説んとす。是れ教法の提灯持のみ、小説めいた説教のみ。豈[ア]に呼で真の小説となすにたらんや。さはいえ摸写々々とばかりにて如何なるものと論定[ロンジサダ]めておかざれば、此方にも胡乱[ウロン]の所あるというもの。よって試に其大略を陳[ノベ]んに、摸写といえることは実相を仮りて虚相を写し出すということなり。前にも述し如く実相界にある諸現象には自然の意なきにあらねど、夫の偶然の形に蔽われて判然とは解らぬものなり。小説に摸写せし現象も勿論偶然のものには相違なけれど、言葉の言廻し脚色の摸様によりて此偶然の形の中に明白に自然の意を写し出さんこと、是れ摸写小説の目的とする所なり。夫れ文章は活[イキ]んことを要す。文章活ざれば意ありと雖も明白なり難く、脚色は意に適切ならんことを要す。適切ならざれば意充分に発達すること能わず。意は実相界の諸現象に在っては自然の法則に随って発達するものなれど、小説の現象中には其発達も得て論理に適わぬものなり。譬ば恋情の切なるものは能く人を殺すといえることを以て意と為したる小説あらんに、其の本尊たる男女のもの共に浮気の性質にて、末の松山浪越さじとの誓文[セイモン]も悉皆[シッカイ]鼻の端の嘘言一時の戯ならんとせんに、末に至って外に仔細もなけれども、只親仁の不承知より手に手を執って淵川に身を沈むるという段に至り、是ではどうやら洒落に命を棄て見る如く聞えて話の条理わからぬ類は、是れ所謂意の発達論理に適わざるものにて、意ありと雖も無に同じ。之を出来損中の出来損とす。
夫れ一口に摸写と曰うと雖も豈容易の事ならんや。羲之[ギシ]の書をデモ書家が真似したとて其筆意を取らんは難く、金岡の画を三文画師が引写にしたればとて其神を伝んは難し。小説を編むも同じ事也。浮世の形を写すさえ容易なことではなきものを況[マシ]てや其の意をや。浮世の形のみを写して其意を写さざるものは下手の作なり。写して意形を全備するものは上手の作なり。意形を全備して活たる如きものは名人の作なり。蓋し意の有無と其発達の功拙とを察し、之を論理に考え之を事実に徴し、以て小説の直段[ネダン]を定むるは是れ批評家の当に力むべき所たり。
ということで、このつづきは…
また明日、近代でお会いしましょう!