#027 日本の貝から始まった!
1853年に、マシュー・ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、浦賀に来航しました。そこからたった1年で、日米和親条約の締結、日本の開国へと至りました。
この開国の前後から、日本近海には、多数の欧米の黒船が出没しました。この黒船の中に、イギリスの水路測量艦アクテオン号がありました。アクテオン号は、1859年から1861年の2年間で、太平洋岸から瀬戸内海、そして五島、壱岐、対馬、樺太までをぐるりと周ったのですが、この船に船医として、貝類学者のアーサー・アダムス(1820-1878)という男が乗船していました。彼は、日本近海の数多くの貝を採集し、その成果をイギリスの『博物学年報』に発表しました。このことをきっかけに、日本には未知の貝が宝の山のようにある!ことが、海外の貝類学者に知られるようになりました。
それから月日は流れ、1877年5月、アメリカの貝類学者が意を決し、日本近海の貝を研究しようと、家族を残して、当時の最新鋭の汽船シティ・オブ・トーキョー号に乗船しました。その人の名は、エドワード・モース(1838-1925)と言います。
時を遡ること7年前の1870(明治3)年、日本では初の鉄道敷設事業が開始されました。線路は全長29キロ、新橋・横浜間で工事が開始されました。ちなみに、ここでいう横浜駅とは、現在の桜木町駅のことです。当時の日本人は、鉄道がどんな乗り物なのかわからず不安がったため、反対運動が起こり、その結果、線路の3分の1に当たる約10キロが海上に敷かれることになりました。工事は2年後に完了し、1日9往復、所要時間53分での運行が開始されました。この海沿いに線路を作ったことが、のちの大きな発見へと繋がります。
1ヶ月の船旅を終えたモースは、この列車に横浜駅から乗りました。前年の1876(明治9)年に完成したばかりの大森駅を出てすぐ、海沿いの切り崩した山から累積した貝が露出していることを、モースは汽車の窓から発見しました。これが、のちの「大森貝塚」です!
モースが来日した1877年、東京開成学校と東京医学校が合併した日本初の大学・東京大学が誕生しました!モースは、来日して1ヶ月後の7月16日、東京大学の「動物学生理学教師」として2年間の契約を結びます。それから4ヶ月後、モースはふたつの目的を果たすために、アメリカへ一時帰国することになります。ひとつは、日本の採集品とアメリカの標本をトレードして日本に持ち帰ること。そして、もうひとつは、物理学と政治学の教授をスカウトすることでした。
モースが、物理学教授としてスカウトしたのが、トマス・メンデンホール(1841-1924)、そして政治学教授としてスカウトしたのが、アーネスト・フェノロサ(1853-1908)でした。
実は昨日、『小説神髄』の、
近きころ某氏といふ米国の博識[モノシリ]がわが東京の府下に於てしばしば美術の理を講じて…
という一文を紹介しましたが、この「米国の博識[モノシリ]」の正体はすでに知られています。
それは、#025でも少しだけ紹介した、このアーネスト・フェノロサです!
というところで、フェノロサの美術講義へと進みたいのですが、
それは、また明日、近代でお会いしましょう!