#022 3つの小説がひとつになる!
どうやら、イギリスでは、1830年代から1850年代の間に、「小説」の地位が一変したらしいのです。それに一役買ったのが、チャールズ・ディケンズ(1812-1870)です。『大いなる遺産』『オリバー・ツイスト』、そして何と言っても『クリスマス・キャロル』ですよね!それまでは、やはり、文芸形態の第一は「演劇」であり、次ぐのは「詩」であり、「小説」を好むのは「飲酒や不義の一段下」と見なされていたようです。しかし、たった20年の間に、ヴィクトリア女王が読むほどの文芸形態に大出世を果たしたのです!
なので、1859年に刊行された『Self-Help』の「novel」観は、かなり保守的なんですよね。そして、この「novel」の保守的な扱われ方が、明治維新で世界がガラリと変わる日本の中で保守的な思想となっていた儒学とドンピシャに重なるわけです。
一方、別の流れもありました。中国では前回、そして#016でも紹介したように、宋代以降に発展した白話小説は、民衆には広まったものの、公では禁圧され続けていました。しかし、舶来品として日本にもたらされると、幕府の「御文庫」に収められるほど、それらは重宝されるものとなりました。ただし、儒学者の佐藤一斎(1772-1859)は、『言志四録』のひとつ『言志耄録』(1851-1853)のなかで、次のように述べています。
稗官野史。俚説劇本。吾人宜如淫聲美食遠之。余年少時。好讀此等書。到今追悔不少
稗官野史。俚説劇本。吾人宜しく淫聲美食のごとく之を遠ざくべし。余年少の時、これらの書を好んで讀む。今に至り追悔少なからず
年少の時、白話小説を好んで読んだことを後悔しているわけです。書物の内容が、儒学の見地からも受け入れがたく、また、儒学発祥の地で卑俗な書が広まっていることへの悲しみもあったのでしょう。この佐藤一斎を師と仰いだのが、中村正直です。
さて、時を同じくして、こんな流れもありました。「草双紙」や「読本」という言い方が一般的だった江戸時代に、戯作者の曲亭馬琴(1767-1848)は、1807年に刊行した『椿説弓張月』で、こんな表現をしています。
今弓張月一書、雖云小説、然引用故實、悉遵正史
今弓張月の一書、小説と云うと雖も、然るに故実を引用し、悉く正史に遵う
馬琴は、ある意味、白話を正しく捉えていることがわかります。「この戯作は、本邦の小説である」と気取って言いながらも、「本来の白話と違って、故実を引用し、正史に従うからね」と言っているわけですからね。おそらく、この宣言には、『椿説弓張月』刊行と同年の1807年に、幕府の検閲強化が始まったこととも関係しているはずです。馬琴は山東京伝(1761-1816)と連名で、次のような口上書を提出しています。
草紙や読本などについては、お触れを堅く守り、その時々の流行風聞は決して書かず、第一に勧善懲悪を正しく、善人・ 孝子・忠臣の伝を主に綴り、なるべく童蒙や婦女子の心得にもなるようなことを作ろうと心がけています。
こうして戯作は、「勧善懲悪」という道徳を自らの身に纏い、正当な学問には縁のない人々にも教訓となるような内容を描くということを名目にして、幕府からの禁圧を逃れ、民衆の間に広まったのです。
これらの背景をもとに、『西国立志編』は誕生しました!
いよいよ、「novel」「白話」「戯曲」の3つの「小説」が、ひとつになるのです!が…
それは、また明日、近代でお会いしましょう!