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#1468 煙を吐いて、溜息ついて、旦那の帰りを待つ女房

それでは今日も幸田露伴の『五重塔』を読んでいきたいと思います。

縁側で長火鉢にむかって話し相手もなくただひとり、三十前後の女性が座っています。鼻筋つんとして目尻キリリとあがり、洗い髪をぐるぐる丸めて色気なしのさま。しかし渋気の抜けた顔は、年増嫌いでも褒めずにはおかれない風体。

今しも台所にては下婢[オサン]が器物[モノ]洗ふ音ばかりして家内静かに、他には人ある様子もなく、何心なくいたづらに黒文字を舌端[シタサキ]で嬲[ナブ]り躍[オド]らせなどして居[イ]し女、ぷつりと其[ソレ]を噛み切つてぷいと吹き飛ばし、火鉢の灰かきならし炭火[スミビ]体[テイ]よく埋[イ]け、芋籠[イモカゴ]より小巾[コギレ]とり出[イダ]し、銀ほど光れる長五徳[ナガゴトク]を磨き、おとしを拭き、銅壺[ドウコ]の蓋まで奇麗にして、さて南部霰地[ナンブアラレ]の大鉄瓶を正然[チャン]とかけし後、石尊様[セキソンサマ]詣[マイ]りのついでに箱根へ寄つて来[キ]しものが姉御へ御土産と呉れたらしき寄木細工の小纎麗[コギヨウ]なる煙草箱を、右の手に持た鼈甲管[ベッコウラオ]の煙管[キセル]で引き寄せ、長閑[ノドカ]に一服吸ふて線香の烟[ケム]るやうに緩々[ユルユル]と烟りを噴[ハ]き出[イダ]し、思はず知らず太息[タメイキ]吐いて、多分は良人[ウチ]の手に入るであらうが憎いのつそりめが対[ムコ]ふへ廻り、去年使ふてやつた恩も忘れ上人様[ショウニンサマ]に胡麻[ゴマ]摺り込んで、強[タッ]て此度[コンド]の仕事を為[シヨ]うと身の分も知らずに願ひを上げたとやら、清吉[セイキチ]の話しでは上人様に依怙贔屓の御情[オココロ]はあつても、名さへ響かぬのつそりに大切[ダイジ]の仕事を任せらるゝ事は檀家方[ダンカガタ]の手前[テマエ]寄進者方[キシンシャガタ]の手前も難しからうなれば、大丈夫此方[コチ]に命[イイツ]けらるゝに極[キマ]つたこと、よしまたのつそりに命けらるればとて彼奴[アレメ]に出来る仕事でもなく、彼奴の下に立つて働く者もあるまいなれば見事出来[デカ]し損ずるは眼に見えたこととのよしなれど、早く良人[ウチノヒト]が愈々[イヨイヨ]御用[ゴヨウ]命[イイツ]かつたと笑ひ顔して帰つて来られゝばよい。

「黒文字」はクスノキ科の落葉低木のことで、アロマオイルに用いる精油がとれ、葉はお茶に使われ、枝は爪楊枝に使われます。なので、ここの黒文字とは、爪楊枝のことです。

「石尊様」は、神奈川県伊勢原市にある真言宗大覚寺派の大山寺のことです。山岳修行者が清浄な山内に修行場所を開拓するに従い山頂の磐座が「石尊権現」として祀られるようになり、江戸期には、江の島と並ぶ観光地として広く浸透しました。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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