見出し画像

#1212 ちょっとだけ九代目市川団十郎の話

尾崎紅葉の『三人妻』には、こんな一文があります。

歌舞伎座の夜芝居[ヨシバイ]、団十郎の高慢なる勤王論が呼物[ヨビモノ]になりて、開場以来の大入[オオイリ]と、かゝる事まで八重葎[ヤエムグラ]の中へ知るゝは新聞の徳なり。

1872(明治5)年、神祇省を改組し、太政官制度のもと宗教統制による国民教化の目的で、民部省社寺掛を併合する形で教部省が設置されます。仏教、特に浄土真宗の要請によって神・儒・仏の合同布教体制が敷かれ、キリスト教の禁制解除、女人結界の解除など近代宗教政策を実施する一方で、国民教化を実現する為に教導職制度を設け、天皇に神格を与え、神道を国教と定めて、日本を「祭政一致の国家」とする大教宣布運動を行ないました。このとき、教導職は半官半民の任命制で、落語家や俳人なども教導職に任命し、俳優や芸人までをその監督のもとに置きました。この教導職に名を連ねたのが九代目市川団十郎(1838-1903)です。

1878(明治11)年、内務大書記官を務めており、のちに第7代東京府知事となる無二の好劇家[コウゲキカ]である松田道之(1839-1882)は、当時内務卿であった伊藤博文(1841-1909)と、#645などで紹介している依田學海(1834-1909)を書記官として席に列ね、五人の俳優を自邸に招きます。十二代目守田勘彌(1846-1897)、五代目尾上菊五郎(1844-1903)、中村 宗十郎(1835-1889)、四代目中村仲蔵(1855-1916)、そして九代目市川団十郎です。

伊藤博文は言います。

泰西の劇は甚だ高尚なるものにて、本邦の劇の如くキッたりハッたりすることも少なく、舞臺にて裸になるが如き見苦しき事もなく、何事も皆道理のつみたるものなり、又看客も上等社會の者に多く、俳優も相當の學識を具へ、然して日本の俳優の如く、客の玩弄物等となるが如きことなし。

學海は言います。

院本第一に要とすべきは趣向なり。次に言語、衣裳なり。主意は故人を誣[シ]ゐず、理義を正し、史鑑の述る處に悖[モト]らざるにあり。

1876(明治9)年、日本橋区数寄屋町の火災で類焼した新富座が、1878(明治11)年、ガス灯を配備した近代劇場として新設され、太政大臣の三条実美(1837-1891)をはじめ、外国公使らを貴賓として招待し、大々的な洋風開場式を行ないます。この式で、燕尾服を着た団十郎は福地桜痴(1841-1906)が執筆した祝辞をのべるのですが、それはまた演劇改良の宣誓ともいうべきものでした。

顧[カエリミ]るに近時の劇風[ゲキフウ]たる、世俗の濁[ダク]を汲み、鄙陋[ヒロウ]の臭[シュ]を好む。彼[カ]の勧懲の妙理を失ひ、徒[イタズ]らに狂奇にのみ是れ陥り、其[ソノ]下流に趣く、蓋し此時[コノトキ]より甚[ハナハダ]しきはなし。團十郎深く之を憂ひ、相與[アイトモ]に謀りて奮然此[コノ]流弊[リュウヘイ]を一洗[イッセン]せん事を冀[コイネガ]ひ……来観の縉紳[シンシン]をして、演劇もまた果して無益の戯れに非ずと云はしめ、永く此場[コノジョウ]をして明治の太平を粧飾[ショウショク]するに足らしむるを期すべし。

団十郎は、1883(明治16)年に「求古会」を結成し、正確な時代考証を目指した史劇を上演しますが、多くの観客には支持されず、仮名垣魯文(1829-1894)には「活歴物」と揶揄されます。ところが団十郎の活歴熱、#1206で紹介した尾崎紅葉のいう「高慢なる勤労論」は、この時代にいちばん熱を上げます。

団十郎は、市川家の成田山信仰とは別に、教派神道の「神習教」に転向します。のちに教派神道「禊教」の教祖・井上正鉄[マサカネ](1790-1849)の一代記を劇化した護教劇『新開場梅田神垣』を上演しています。

1886(明治19)年8月、#044などで紹介した外山正一(1840-1900)が『演劇改良論私考』を、そして、のちに伊藤博文の次女と結婚する末松謙澄(1855-1920)が『演劇改良会意見』を発表し、政治家、経済人、文学者らで「演劇改良会」が結成されます。上流階級が見るにふさわしい演劇を主張し、女形の廃止、花道の廃止、芝居茶屋との関係見直しなどを提言しますが、坪内逍遥は「末松君の演劇改良論を讀む」で、森鷗外は「演劇改良論者の偏見に驚く」で反対意見を述べます。同年9月、団十郎は『夢物語盧生容畫[ユメモノガタリロセイノスガタエ]』で渡辺崋山を演じ、活歴物としては異例の当たりをとります。そして1887(明治20)年、当時外務大臣だった井上馨(1836-1915)の邸宅に設けた仮設舞台で明治天皇による展覧歌舞伎が実現し、五代目尾上菊五郎(1844-1903)、初代市川左団次(1842-1904)らとともに『勧進帳』をつとめ、歌舞伎はいわば国家的な認知を受け、団十郎の役割はひとつの区切りをむかえます。

そして1889(明治22)年に「歌舞伎座」が開場すると、団十郎は歌舞伎に立ち返り、1893(明治26)年の『勧進帳』で人気を回復、五代目尾上菊五郎、初代市川左団次らとともに「團菊左」と呼ばれ明治歌舞伎の黄金時代を築きました。

というところで、ふたたび『三人妻』に戻りたいのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?