#557 留学理由に両親も滝の涙
それでは今日も山田美妙の『花ぐるま』を読んでいきたいと思います。
第二回は、第一回の続きから始まります。寒空のした、夜中に三人の車夫が客待ちをしています。年上の二人が先に帰ってしまい、一人残された年下の車夫のところにお客がやってきます。ひたすら一目散に走って、お客を家まで届けると、門から二人の女性が出てきます。一人は阿梅[オウメ]という女性で、お客の妹のようで、その色白の丸顔を、車夫はもっと見たいと思います。もう一人は雪という名の下女のようで、二人は兄の土産を遠慮して帰ってしまいます。お客が家に入ると、代わりに下女が出てきて、多めの運賃をくれます。普段なら多すぎる分を返す性格ですが、今日は数えもせず、ふところに収めます。上野の鐘が十時を打った頃、車夫は、先ほどの阿梅のことを思い浮かべます。この車夫の名は来間力造、24歳で、どうやら東北の出身のようです。人ができないことをしたいという性質で、人と違った説のみを立てることもあって、相手の心を損ずることもあります。幼い頃は、子供騙しの脅しが効かず、そのまま束縛や圧制というものを知らずに育ち、しかも、親の金に頼らず東京へ留学したいと言います。親が、どうやって東京で生きる気か、と聞くと、「人力車夫」と答えます。
如何[イカ]なことでも人力車夫とは…親が駭[オドロ]いたのも尤[モットモ]です。暫時[ザンジ]は呆[アキ]れて言葉もありません。
あまりの事に父親さへ眼をうるませたほどで、無論母親も涙は滝[タキ]のやうで、それで、あゝ何と言ッたら宜[ヨ]う厶[ゴザ]いましやう、その親の慈悲を思へば力造も身が千切[チギ]れるやうで、左様[ソウ]かとて例の一癖[イッペキ]はまだ肱[ヒジ]を張ッて居て…是[コレ]もおなじ涙をわかッて双[ソウ]の袂[タモト]を絞りながらさて言出[イイダ]した事を引くことも為[シ]ません。
「左様[ソウ]仰[オッシャ]られると当惑しますが」、おど/\して僅[ワズカ]に腕を撫[ナ]で、「一ツ苦辛[クシン]を為[シ]ないでは…このとほり筋骨も丈夫で…太閤だッて貴親[アナタ]…そのかはり」…
後[アト]は口端[クチハタ]がびく/\して涙が目です。
「末[スエ]にやア」…
この一句は鼻を啜[スス]る親たちの声に掻消[カキケ]されて仕舞ひました。
あゝ、親を頼[タノミ]とせぬ子に限ッてまた親と親昵[シタシミ]の薄いのは一体の世の常ですのに、この力造ばかりハ、恒[ツネ]ハ中々気象があッてそれで親の涙の露を受ければさながら花のやうに孱弱[カヨワ]い処女[ムスメ]のごとく極[ゴク]したしく極愛[ゴクアイ]らしくそして極[ゴク]あどけなくなる有[アリ]さま兎に角慕[シタ]はしい人物です、どうか斯[コ]うかそれから遂に心を押徹[オシトオ]して遂に上京して夜[ヨ]は人力車[クルマ]は挽[ヒイ]て居るのでことし廿四美[ウツクシ]い身体[カラダ]です直[ネ]を厭[イト]はず挽[ヒ]きますからそれ樫[カシ]の木も実の一粒、毎夜[マイヨ]得[ウ]るところの賃銭[チンセン]は平均五六十銭ださうですが前回見えた乗客これが是[コレ]から此[コノ]力造と妙な関係になッて来るのです。畢竟[ヒッキョウ]その後[ノチ]はて今の処[トコロ]平生[ヘイゼイ]は厚く礼を述べて賃銭を受取[ウケト]るものが茫然[ボウゼン]として居たその仔細[シサイ]は言はずと大抵御察しでしやうが猶[ナオ]其処にまた一寸[チョット]意外なことがあります。
というところで、第二回が終了します!
さて、意外な事とは何なのか。
さっそく第三回へと移りたいのですが…
それはまた明日、近代でお会いしましょう!
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