#054 国語と教科書と標準語の話
坪内逍遥の『小説神髄』は、「文体論」に多くの紙数を割いています。
それは、我が国に本物の「小説」を根付かせるための新しい文体を提示するために多くの紙数を割いているのではなく、何が正解かわからないから多くの紙数が割かれてしまっているのです。
逍遥は、「羅馬字会」や「かなのくわい」を紹介するところで、「国語」という単語を頻繁に使っているのですが、そもそも、この時代、我が国の言語たる「国語」がなかったんですよ!国家の俗言たる「標準語」がなかったんですよね!
逍遥の、説明すればするほど複雑になっていく文体論の根っこには、おそらくそんな事情があるからに違いないんです。
ちなみに、「国語」という単語は、『小説神髄』刊行と同年の1885(明治18)年に三宅米吉(1860-1929)が立ち上げた「方言取調仲間」の趣意書に「我が日本の国語」という表記があり、それが定着したと言われてます。「標準語」は「standard language」の訳語であり、初出用例は岡倉由三郎(1868-1936)の『日本語学一斑』(1890)とされています。しかし、「国語」も「標準語」も、その拡散と定着において上田万年(1867-1937)を抜きにして語ることはできないのです!
1872(明治5)年に「学制」が発布され、全国に学校が設けられて近代教育制度が始まりましたが、当時の教科書は、欧米の教科書を翻訳したものや、寺子屋・藩校時代の伝統的な漢籍を使うなど、統一されていませんでした。
1879(明治12)年に「教育令」が公布され、学校が「小学校・中学校・大学校」などに分けられ、1886年(明治19)年から「諸学校令」が公布され、中学校の教科に「国語及漢文」が登場します。小学校の教科で、「読書」「作文」「習字」が一本化され「国語」が登場するのは、随分と遅れて、1900(明治33)年のことでした。
1904(明治37) 年以後は国定教科書が使用され、全国同一の教科書で学ぶことになるのですが、「国定教科書編纂趣意書」には、
と述べられています。この「東京の中流社会を標準にする」ことを推奨した中心人物が上田万年です。
上田万年は、1890(明治23)年から4年間、言語学研究のため、ドイツやフランスなどに留学し、帰国後まもない1895(明治28)年、『帝国文学』に「標準語に就きて」という評論を書きました。
上田万年は、「標準語」を、1.一国内に模範として用いられる言語で、2.必ずどこかに現在話されている言葉で、3.文章上の言語となること、と定義したうえで、次のように述べています。
ここでひとつの疑問がありまして、それは、なぜ「京都の言葉を標準語に推奨しなかったのか」なんですよね。だって、天皇を頂点に置くのが明治政府で、天皇は京都からやってきたんだから、京都の言葉を標準語にしたっていいじゃないですか!
というところで…
それは、また明日、近代でお会いしましょう!
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