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#021 なぜ中村正直は改ざんしたのか?

前回、『西国立志編』の第11章24「稗官小説の害」を紹介しましたが、このタイトルをつけたのは、なにを隠そう、翻訳者の中村正直です。そもそも原著では、章立てはあっても、節は設けられておりません。

原著の11章のタイトルは「SELF-CULTURE--FACILITIES AND DIFFICULTIES」、つまり「自己修養ー容易さと困難さ」です。自ら教養を高める方法の中で、読書の弊害を説明しているのですが、スマイルズは、こんなことも言っています。

文芸作品の描写には、老人も若者も、すべての階層の読者が本能的に強く惹きつけられるし、また、我々が程度をわきまえて読書を楽しんでる分には、その楽しみを妨げられることはない。

上の文章は、前回紹介した「稗官小説の害」の一文です。でも、読み返したらわかりますけど、こんな文章、「稗官小説の害」のどこにも載っていないんですよ!なぜなら、中村正直が、翻訳作業で、これをカットしちゃったからなんです!スマイルズが、一般文芸を非難するものの「小説を読む自由」もあることを説いているのに対して、中村正直は、その救いすら排除して、徹底的に「小説」を非難する文章に変えちゃってるんですよね…

なぜ、中村正直は、こんな改ざんをしたのでしょうか?

やはり、そこには、思想の素地として「漢学と儒学」があったことが原因ではないかと指摘されています。

この先、三つの物語が、一つに融合を始めます。中国の「小説」とイギリスの「novel」と日本の「戯曲」です…

まずは、中国の「小説」をおさらいしましょう…

前回紹介した三川智央氏の論文では、中国の明代の『宣宗実録』(1438)の次の一文を紹介しています。

近来、伝奇や演義などの書物が、新しく次々と出版されているが、その語句の多くは卑俗である。当初は市井の徒が喜んで読んでいたが、やがて児童婦女にまでも流行して、放蕩を風流、剛暴を豪傑、軽薄を有能、猥褻を日常的なものとして考えるようになった。また虚妄の言に仮託し、まじないやお祓いなどの術を作り出し、無知蒙昧な者は鉦や太鼓を叩き、裁判ざたは日ごとに増え、盗みが頻繁に行われているのは、こうした書物の影響だと言わざるを得ない。今後、各省の督撫や府尹は地方官に厳しく調査を命じ、もし民間の書店で刊刻したり、淫書小説を貸し出ししているものがあれば、その版木や書物を没収し、すべて焼却に処すること。正当なる処置を経て民心を正し、すべての不正を平らげることを、朕は強く望む

ちなみに、中国の明代では、新たな皇帝が即位すると、先代皇帝の実録を編纂する定めがあったため、『宣宗実録』の場合は、次の皇帝の英宗の時代に作られました。

三川氏は上記を踏襲し、以下のように続けます。

儒教的秩序を国家統治の根幹とした当時の中国において、「小説」はまさに、人心を惑わし風紀を乱す卑俗かつ荒唐無稽な「虚妄の言」として、禁止すべき有害なものであった。そしてまた、当然のことながら、中国におけるこのような「小説」に対する意識は、日本の儒学者の間にも伝わっていた。

まず、中国では、魯迅の授業にもあったように、宋代以降に誕生した白話小説が、公では禁圧を受けながらも、民衆の間には広がっていきました。これが舶来品として、日本にも伝わるのですが…

続きは、また明日、近代でお会いしましょう!

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