さて、ここで再び尾崎紅葉に戻りたいと思います。『三人妻』から4年後の1896(明治29)年、紅葉は読売新聞に『多情多恨』を連載します。この小説こそ、紅葉が文体を試行錯誤した結果、文末形式に「である」を用いて完成させた言文一致体小説です。
ちょっとここで、『多情多恨』に入る前に、すこしだけ寄り道して読んでおきたいものがありまして……。というのも、そもそも尾崎紅葉は言文一致に対してどんなことを考え、苦悩し、「である」調に辿り着いたのか……。
紅葉は1903(明治36)年10月30日に亡くなりますが、その約2ヵ月後の1904(明治37)年1月1日に、「新小説」にて尾崎紅葉門下の小説家・山岸荷葉[カヨウ](1876-1945)が「故紅葉大人[タイジン]談片[ダンペン]」を発表します。「折々にふれて受けたる教えの中より、取り出でたる数種の談話を、断片にはあれど故大人の口吻を写して記すものなり」として「地の文と会話」という文章を載せています。それをまずは読んでいきたいと思います。
ということで、いよいよ『多情多恨』を読んでいきたいと思うのですが……
それはまた明日、近代でお会いしましょう!