それでは今日も尾崎紅葉の『多情多恨』を読んでいきたいと思います。
お類に死なれてから暮らし向きは火の無い火鉢のように侘しいものになった。葉山の座敷を逃げ出した翌日の午後、閉じ籠っているより出る方がマシだと考えた矢先に学校から人が来て出勤を促されたので、出てみようという気になる。その日になってみると、気が挫けて、九時頃まで炬燵にはいってグズグズしている。いつもならば「さあ、あなた」とお類が上がって来ておったてるのに……。思い出す事が多くなって懐かしさが胸いっぱいになる。もし金で自由になるものならば、いかなる艱難をしてでも、再びお類をこの世に生かしたいと思う。人の死んだのは紙のメラメラと燃えてしまったのと同じことで、もうとりかえしがならぬ。お類はこうしている間に赤土に埋まって腐ってゆくのであると思えば失望が激しくなる。こんな寒い日に学校へ出て五時間も勤めて何になるのだ!ああ、つまらん、つまらん!やがて悲しくなって、胸がせまって、涙が流れて、苦しみを覚えるので、酒をあおって寝ます。寝る事に飽きれば、運動をして、空を眺めて、ためいきをつく。次の日も、その次の日も、このていたらくで過ごします。老婢は心配します。柳之助も「寂しいな、元」とはよく言うが、そのほかには何も言いません。三七日の朝、柳之助はモーニングコートを着て墓参りに出ます。町通りを二町ほど来ると一軒の花屋がある。
ということで、この続きは……
また明日、近代でお会いしましょう!