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#1597 「花をくれんか」「お上げ申すわけにはまいりません」

それでは今日も尾崎紅葉の『多情多恨』を読んでいきたいと思います。

お類に死なれてから暮らし向きは火の無い火鉢のように侘しいものになった。葉山の座敷を逃げ出した翌日の午後、閉じ籠っているより出る方がマシだと考えた矢先に学校から人が来て出勤を促されたので、出てみようという気になる。その日になってみると、気が挫けて、九時頃まで炬燵にはいってグズグズしている。いつもならば「さあ、あなた」とお類が上がって来ておったてるのに……。思い出す事が多くなって懐かしさが胸いっぱいになる。もし金で自由になるものならば、いかなる艱難をしてでも、再びお類をこの世に生かしたいと思う。人の死んだのは紙のメラメラと燃えてしまったのと同じことで、もうとりかえしがならぬ。お類はこうしている間に赤土に埋まって腐ってゆくのであると思えば失望が激しくなる。こんな寒い日に学校へ出て五時間も勤めて何になるのだ!ああ、つまらん、つまらん!やがて悲しくなって、胸がせまって、涙が流れて、苦しみを覚えるので、酒をあおって寝ます。寝る事に飽きれば、運動をして、空を眺めて、ためいきをつく。次の日も、その次の日も、このていたらくで過ごします。老婢は心配します。柳之助も「寂しいな、元」とはよく言うが、そのほかには何も言いません。三七日の朝、柳之助はモーニングコートを着て墓参りに出ます。町通りを二町ほど来ると一軒の花屋がある。

お類は花を活けたので、此[コノ]店が買付[カイツケ]であつたから、柳之助は今日の手向[タムケ]の花も此[ココ]で買つて行かうと為[シ]たのであるが、之を見ると有繋[サスガ]に不快を感じて、入るも可厭[イヤ]になつて、五六歩[ポ]行過[イキス]ぎたのである。此先の横町には未[マ]だ一軒大きなのが在るが、此[ココ]が好[イ]いと云つて、類さんは贔屓であつたから、此で買つた方が仏[ホトケ]は喜ぶであらう、と思翻[オモイカエ]して、竟[ツイ]に直[ズッ]と入る。
狭い土間に四人も仕事をしてゐるのであるから、足も容[イ]れられぬ。閾[シキイ]の上に靴の頭[サキ]を蹈懸[フミカ]けて、
「おい、花を与[ク]れんか。」
と内を一目[ヒトメ]眗[ミマワ]したが、並むである花溜[ハナダメ]には屑のやうな物ばかりで、何も無い。主[アルジ]は椿の枝をぱちりと剪[ハサ]むで、
「今日[コンチ]は如何[ドウ]も御気毒様で。」
と此方[コチラ]も向かず仕事に掛[カカ]つてゐる。
「花は無いのか。」
「へい、今日[コンチ]は……」と益[マスマス]取合はぬ。
「其処[ソコ]に在るぢやないか。」
柳之助は土間に転[コロガ]してある蓙[ゴザ]の南天をステツキで指せば、
「是は御註文で、」
「少し売つてくれ。」
「どうも然[ソウ]は参りません。此先の横町に花屋がございますから。」
「我家[ウチ]ぢや始終お前の所で買つとるのだよ。」
「へい、どうも毎度難有[アリガト]うございます。」
「其[ソノ]南天を二枝[フタエダ]と、水仙を少許[スコシ]売つてくれ。」
「是はお上げ申す訳[ワケ]には参りません、此花に用[ツカ]ふのですから。」
煩[ウルサ]いと云ふ気色[ケシキ]で、主[アルジ]は拵[コシラ]へてゐる花の陰[カゲ]へ廻つて顔を見せぬやうにして了[シマ]ふ。
「売れんのか。」と柳之助も怫然[ムッ]とする。
「へい。」とばかりで、後はちやきり/\と鋏[ハサミ]の音ばかり。丁稚[デッチ]や手伝[テツダイ]は連[シキリ]に柳之助の顔を見て、悪く黙つてゐる。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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