#630 ようやく胡蝶が登場します
それでは今日も山田美妙の『胡蝶』を読んでいきたいと思います。
海は軍船を床として、討ち死にした武士の骸が幾百と漂っています。猛将・平教経が源氏の旗下へ飛び込み、敵を蹴散らします。源義経は危ういと思い、旗下へ引き返しましたが、反動の力すさまじく、敵は安徳天皇が乗った御座船に近寄ります。安徳帝の女房どもは泣きたてて取りすがり、平家の柱石といわれた平知盛の唇もわななきます。知盛は拝謁するや否や引き返して敵に近付き士卒を励まします。敵はさらに御座船に近づきます。矢が雨のように降ってきます。いくさの様子を見ていた二位尼は御座船の奥の間へ主要な八人を呼び寄せます。
それから何を話しているか元より秘密にしたことゝ見えて次の間へ行って聞いてもよくは聞えませんが、ただ非常に嘆きかなしむ声がします。胡蝶と言ってことし甫[ハジ]めて十七になった官女、これは京都から此処までも常に源典侍に従っている美人ですが、しきりに怪しく思うのあまり近寄って心を静め、よく聞けばその内に門院(健礼門院[ケンレイモンイン])のお声として涙にうるんだ気はいが洩れて来ます。
健礼門院とは、平徳子(1155-1213)のことで、安徳天皇の母で、平清盛の娘です。
「さればとて、のう、二位、」紛れもない門院のお声です、「御門[ミカド](安徳帝)のむずがらせたまわんを……如何[イカ]に﹆これのみにては。」
「お心細くも侍[ハベ]らん。然[サ]はあれども源氏あざむかんには二位こそ此上[コヨ]なきものなるを」。
これはたしかに二位の声で、跡[アト]は鼻をすゝる音が聞えるばかりです。聞けば表の方で女ばらも立噪[タチサワ]ぐようです。「すわや源氏」という声に胡蝶も立聞[タチギキ]してはいられません。足を抽[ヌ]いて立帰[タチカエ]って外を見れば、なるほど源氏は既に間近[マヂカ]く寄りました。が、頼母[タノモ]しい、それでも猶[ナオ]名を惜しむ士卒[シソツ]どもは防戦して寄付[ヨセツ]けまいとしています。
「かくて争[イカ]でか逃[ノガ]れ果つべき。早く心をするこそ好[ヨ]けれ」。一度[ヒトタビ]胡蝶も心をば斯[コ]う決しましたが、さて又主上[シュジョウ]や門院の御身[オンミ]の上が気になってなって堪[タマ]りません。暫時[シバシ]舟の端[ハタ]にたゝずんで(今は矢を恐れもしません)、四方[アタリ]を見回わしていましたが、思付[オモイツ]いてまた奥の方へと立帰って行く出合[デアイ]がしら、見れば二位尼は主上の御手[ミテ]を引いて其処[ソコ]に立っています。
ということで、この続きは…
また明日、近代でお会いしましょう!
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?