#644 「メディアが人を殺す時代」の最初のサンプル
長田秋濤[オサダシュウトウ](1871-1915)という男がいました。1890(明治23)年、19歳のときに、英国ケンブリッジ大学に入学し法律と政治を学びましたが、人種差別的な扱いを受け、フランスに移り、ソルボンヌ大学で法律を学ぶという名目で外務省留学生となります。留学中に演劇に関心を持ち、1893(明治26)年に帰国すると、『早稲田文学』でフランスの演劇を紹介したり、演劇改革を論じるようになります。1903(明治36)年には、アレクサンドル・デュマ(1824-1895)の『椿姫』(1848)を翻訳し刊行します。山田美妙や尾崎紅葉(1868-1903)が立ち上げた硯友社とも親交を持ちます。『椿姫』翻訳刊行と同じ年に、尾崎紅葉がヴィクトル・ユゴー(1802-1885)の『ノートルダム・ド・パリ』(1831)を翻訳して『鐘楼守』と題して出版しますが、この作品も実際は秋濤の仕事によるものです。
#600で紹介しました『花ぐるま』の作中に、1888(明治21)年に改組された「日本演芸矯風会」に関する話が出てきましたが、それから6年後の1894年4月、長田秋濤のもとに、依田學海、山田美妙、坪内逍遥が集まり、演劇改良を論じ合う機会がおとずれます。秋濤・學海・美妙は「演劇改良同盟」結成を考えていたのですが、逍遥には別の考えがあり、結局、同盟結成は叶わないものとなります。
ここからです…。美妙の人生が狂いだすのは…。
1894年11月29日、「萬朝報」に、浅草六区に囲っていた娼妓・石井留女との金銭トラブルが暴露されます。美妙は報道に対して「留女に近づくは小説をつくる方便なり」と弁明します。この対応に大激怒したのが、なにを隠そう坪内逍遥です!逍遥は娼妓であった鵜飼センを妻としています。逍遥は同年12月の『早稲田文学』で「小説家は実験を名として不義を行ふの権利ありや」という長文の批判を発表し、美妙の醜名は小説界全体の醜名であり、道徳の仮面をかぶっているのは卑怯極まりないと、道義的責任を責めたのです。
結果、美妙は小説界から干されました…父親の吉雄は兵庫県警部長でしたが、息子が女性問題で世間を騒がせたとして退官します…
岩波文庫の『いちご姫・蝴蝶』の巻末解説で日本近代文学研究者の十川信介(1936-2018)は、こんな風に書いています。
すくなくとも…生き埋めとなった一番のきっかけは、文壇の大御所・坪内逍遥の逆鱗に触れたことです…
内田魯庵(1868-1929)は、美妙のひきたてにより、1888(明治21)年、『女学雑誌』に「山田美妙大人[ウシ]の小説」を書いてデビューした人です。この批評に魯庵はこう書いています。
それから37年後、1925(大正14)年に刊行された『思ひ出す人々』で魯庵は、こう書いています。
昨日の友は今日の敵…恩を仇で返す…正しくも切ない評論ではありませんか…美妙がこれより15年前の1910(明治43)年に42歳ですでに亡くなっていることが、せめてもの悲しい救いでしょうか…
『明治の文学 第10巻 山田美妙』(編集・坪内祐三 筑摩書房 2001)の巻末解説で嵐山光三郎(1942-)は、美妙に同情しています。
そして、嵐山光三郎は、こう断言します。
そんな美妙は、『蝴蝶』発表の翌年の1890(明治23)年、改進新聞社に入社し、改進新聞紙上で『明治文壇叢話[ソウワ]』と題して、知り合いの作家との交友録を連載します。2月から始まった連載は9月で中断しますが、この間に、取り上げられた作家が、依田學海、坪内逍遥、二葉亭四迷なのです。
メディアに殺された最初のサンプルになるのは、この4年後のことです…なんともやるせない話じゃないですか…
ということで、この『明治文壇叢話』を最後に読んでいきたいと思うのですが…
それはまた明日、近代でお会いしましょう!
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