#562 理想に近いものの美しさは、力を持っています
それでは今日も山田美妙の『花ぐるま』を読んでいきたいと思います。
第三回は、ある私立法律学校から始まります。5、6人の書生が遅刻の教師を待っています。彼らが討論しているのは「美人の事」でして…。どうやら遅刻の教師の妹が美人との噂で教室は盛り上がるのですが、ひとりだけ授業のテキストを読んで興味なさそうにしている人がいます。それが今回の主人公・力造さんでして、夜は人力車、昼は学生をしているようです。学生たちが教師の妹の顔のパーツの良し悪しを話している時、ある学生が、「才女だそうだ。ひとに負けるのが嫌いだそうだ」と発言すると、力造さん、彼らの話に注意を引き取られてしまいます。ここから力造さんの連想と妄想が始まります。ひとに負けるのが嫌いなのは感心だけど、美しくないのを妻にするのも妙だ、美しいといえば阿梅だがお客で乗せた兄とは杉田の兄妹と同じ関係なのだろうか、杉田といえば軽躁で柔弱だが妹に淑徳があるのだろうか、仮に杉田の妹を妻にすることがあったら…
まづ愛するもので標準をつければ、それにつながる者までが憎くなくなッて来るのは吾人[ワレワレ]の心のかよわさです。坊主につらなる袈裟[ケサ]、例は反対ですが、理[リ]は同じです。
力造のやうな磊落[ライラク]なものが、斯[コ]う妙な生[ナマ]めいた考[カンガエ]を起[オコ]すのは宛然[サナガラ]冬草[フユクサ]の中に牡丹[ボタン]が咲いたやうで、ちと反映[ウツリ]はわるさうですが、しかし気象といふ敵には武者も心を爍[トロ]かします。力造は磊落な性質です。浅はかな色艶[イロツヤ]の美くしさハ更に勢力がありません。たゞ、しかし気象といふ一種無形、すなはち理想に近いものゝ美くしさ、それは却[カエ]ッて力を有[モ]ッて居ます。なる程力造も人間です。人の美は力造にも美です。先夜[センヤ]阿梅を見て恍惚[コウコツ]としたのは朧[オボロ]の美に撲[ウ]たれたのです﹆が、肉体の美ですから深い痕[アト]をば心に留[ト]めませんでした。たゞその時から暫時[ザンジ]は「あゝ美くしい」と思ッてやがてその左様[ソウ]思ッた熱は時間と共にいつか消失[キエウ]せて仕舞ひましたが、根が考深[カンガエブカ]い性質[タチ]、今更に平生[ヘイゼイ]自分の理想にある「負[マケ]るのが嫌[キライ]」といふことを仄[ホノ]めかされてハ終[ツイ]に思はずには居られなくなッて来ました。
左様為[ソウス]ると傍[ソバ]の書生たちからその話の続[ツヅキ]を聞きたく為[ナ]ります。どうかしてその話が再[フタタビ]始まるやうにと望みましたが、さて改まッて聞出[キキダ]す訳には行[ユ]きません。やうやくに一策[イッサク]を案じ出してそれと無くまづ杉田の宿処[シュクショ]を尋出[タズネダ]しました。
「此間[コノアイダ]の試験が」、遠攻[トオゼメ]に兵を繰寄[クリヨ]せ、「僕がちといけなかッた。此間[コノアイダ]の杉田の試験が」。
ということで、この続きは…
また明日、近代でお会いしましょう!