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精神疾患の話、父の話(5/n)

(承前)

勉強は得意で体育が苦手という、まあ時々見かけるどんくさいタイプの少年ではあったけれど、小学校の時はそれなりにクラスメイトともコミュニケーションができていたような気がする
でもやっぱり男子はさっぱりだ
女子とはまぁまぁ話はできる、そんな感じだった
感じのいいクラスメイトが多かったから、特に冷たくされたとかいじめられたとか無視されたとか、「女ったらし」みたいないじられ方をすることもなくわりと平穏に過ごすことができたという気がする
あまり思い出はないけれど

中学は家から歩いて10分くらいのところにあった
2つの小学校の子どもたちが1つの中学校に合流するというスタイルだ

そういえば、僕は勉強が得意だったと書いたけれど、国語算数理科社会と体育以外はどうだったかというと、音楽がとても得意だし好きだった
図工とか美術みたいなものはからっきしだったな
音楽は大体何でも好きだったけれど、特に楽器が好きだった
ピアノとかオルガン(当時はオルガンというものがわりとメジャーな習い事のひとつだった)をやったことはなかったけれど、ピアニカとかリコーダーが得意だった
特にリコーダーはうまかった
いつも担任の教師が「じゃぁ堀込くん、お手本吹いてくれるかな」という具合にみんなの前で僕にリコーダーを吹かせたし、僕はいつだって上手に吹けた

だから僕は中学に上がると吹奏楽部に入った
入部の際に顧問の教師から希望の楽器を尋ねられると僕はもじもじしながら「トランペットかサックスがいいです」と答えた
だいたいみんなそういう目立つ楽器を希望するのだ
だけれどもちろんみんながみんな花型の楽器を担当できるわけではない
これは吹奏楽部ではよくある話だけれど、吹奏楽部は男子が少ないから、体の大きな男子が入部してくるとたいてい「チューバ」という大きな楽器を押し付けられる
チューバってわかるかな
ステージの端のほうで「ボンボン」と低い音で伴奏をしている大きな楽器
だいたい原付バイクくらいの大きさだ
それを抱きかかえながら演奏しているから演奏会の写真でも顔は映らない
とても大きくてとても地味な楽器、それがチューバ
太っちょの少年である僕は当然の如くチューバを担当することになった
ちょっとがっかりしたけれど、やってみるとなかなか楽しい楽器だ
チューバは今でもとても好きだ

部活動はとても楽しかったな
中学に入っても勉強はできた
もちろん体育はできない
でもまぁまぁクラスメイトとも話ができたし、なかなか中学というところも悪くないじゃないかと思っていた



自律神経失調症という病気がある
精確に言うと、「自律神経失調症」というのは病気ではない
ややこしいけれど、自律神経失調症というのは正式な病名ではないし、日本にしかない呼称で、医学教育の中でも出てこないという話を聞く(実際はどうなんだろう)
定義を調べてみると「自律神経系の不定愁訴を有し、臨床検査では器質的病変が認められず、かつ顕著な精神障害のないもの」となっている
しかし、僕の個人的な感覚から言えばこの定義は間違っている、というか定義は間違えていないのかもしれないけれど、自律神経失調症という単語はこのような定義とは違った意味合いで用いられることが多い気がする
多かった、というのが正しいのかもしれない
どういうことかというと、なんらかの精神疾患の隠語的表現として用いられていたような気がする、ということだ
特に昔は精神疾患に対する理解は今ほど進んでいなかったし、精神疾患を患っているということがわかると偏見や差別に晒されるということもあったと思う(今だってもちろんそういうことはある)
そういう時に、うつ病とか、双極性障害ではなく「自律神経失調症ですよ」という耳あたりの良い病名が用いられていたのではないかと推測する
そのほうが患者自身にもその家族にも、あるいは医師にとっても、都合がよかったのではなかろうか
なにせ統合失調症が精神分裂病なんて呼ばれていた時代だ、精神疾患の烙印を押されることは相当しんどいことだったろう
昔はがん患者にショックを与えないために「胃潰瘍です」などと伝えるケースがあったけれど、それに少し似ている

僕の父は自律神経失調症だと自称していた
うっすらとした記憶だけれど僕が幼い頃から毎月通院して薬を服用していたように思う
細かい症状なんかの説明は省くけれど、今から思うと彼はうつ病とかその手の気分障害の類、あるいは不安障害かなにかであったと想像する
彼の勤め先での出勤状況はあまり芳しくなかったような記憶がうっすらあるし(平日なのに家で蒲団を敷いて寝ていることが時々あった)、食事とか何かの際にえずいてしまうみたいな嘔吐反射が相当強かった
当時はインターネットなんてものはなかったからわからなかったけれど、彼が通院していた病院名(薬の袋に書いてあった)をのちに検索してみたら「心療内科・精神科」と書いてあった

僕の父は札幌に来る前は仕事を転々としていた
僕が小学校へ上がるまでに4つか5つくらい職を変えていたと思う
それもすべて営業職で時間の自由が利く仕事だった
もしかすると仕事が長続きしなかった理由のひとつにそういった「自律神経失調症」の影響があったのかもしれない
札幌にやってくると、彼はとある日用品メーカーに勤め始めた
事務所には数人しか人がいない小さなところらしいかったけれど、本州資本のメーカーの出先ということで待遇はそれほど悪くなかったらしい
恐らく営業ということでかなり自由がきいたんじゃないかな
直行直帰みたいなこともあったのかもしれない
そういうことでもないと彼の体調を考えると週に6日間仕事をする(週休2日制が普及する以前の話だ)というのはきつかったんだろうと思う
会社にも余裕があったんじゃないかな、時代が良かった
ちょうどバブル景気が始まったころだ
偶然にも比較的ゆるい会社にもぐりこんだお陰か、あるいは時代が良かったせいか、彼は持病を抱えながらもその会社に長く務めることになる

彼の病気の塩梅やら精神状態についてはよくわからない
どうやら彼には自分が「精神疾患」だという自覚はあまりなかったようだけれど、とにかく通院は続けて薬は手放していなかった
でも、傍から見ていてもちょうど僕が小学校時代を過ごす間に彼の病気の状態はゆるやかに回復していったように思う
何が良かったのかは僕にはわからないけれど、あるいは彼自身にもわからないのだろうけれど、きっとのんびりと仕事をしながらそれなりの成果を挙げていたことでなんとなく自信がついて、精神にも余裕が生まれたんじゃないかと想像する

やがてバブルは弾けた

彼の勤めていた会社は北海道からの撤退を決めた
ところが彼はわりと会社の中でうまく立ち回っていたようで、撤退後にその会社が北海道内に商品を卸す仕事を任せてもらえるように話をつけて、自分で仲卸の会社を立ち上げた
そして更にその仕事のほかに、輸入販売の商売も始めた
彼のビジネスは比較的順調に進んだように見えたな
新車だって買っていたんだ

それで彼は、今だ、と思ったのだろう
家を買うことを決めた
弾けたとはいえまだまだバブルの雰囲気いっぱいの時代だ、札幌でも土地は馬鹿みたいに高かった
だから札幌市ではなく、その隣の街の、その中でもかなり札幌から離れた奥まった場所に安くて大きな宅地を見つけて注文住宅を建てた
銀行が金を貸してくれた
彼は昔の人だから、やっぱり戸建ての家を建てたいという思いがあったんだろうな
リビングが吹き抜けで駐車場は4台分あるし、芝生の庭もあったし馬鹿みたいにでかいソニーのブラウン管テレビもあった
父と母はとても楽しそうに見えた



一般論として、転校というものは寂しさが伴うものだと思う
友達と別れるのだから当然だ
僕には友達と言えるような人はほとんどいなかったけれど、まあそれはそれとしてだ

父が家を新築したことで僕は札幌から市外へと転校することになった
僕も訪れたこともない街に引っ越すというありがちな不安をそれなりに抱えていた

札幌の中学ではブレザーの制服を着ていたのだけれど、新しい学校では詰襟だった
でも教師は僕が制服を着て登校すると「制服はほとんど着ることがないから、普段はジャージで登校してください」と言った
確かに、転校して初日、クラスに入ると全員ジャージを着ていた
なんとなく嫌な感じがした
僕は本を読むのが好きだったから図書室に行ってみた
図書室は少し荒んだ感じがして、あまり僕が読みたいような本はなかったし、そもそもあまり図書室を利用する生徒は多くないようだった
図書係の女の子はカウンターの中で退屈そうに何かの雑誌のページをめくっていた
「部活動はどうする」と担任の中年女性に尋ねられて僕は「吹奏楽部に入りたいです」と申し出た
「うちの学校には吹奏楽部はないの、申し訳ないけれど」と彼女は全然申し訳なくなさそうに言った

そんな風にして僕の新しい学校生活が始まった


結論から言うと、この転校が僕の人生を大きく変えることになったと思う
もちろん、よくない方向にだ
時々「人生をやり直せるならいつからやり直したいですか」という質問をされることがあるけれど、どこかの時点に戻らなければならないならば、中学入学時点に戻って転校しない道を選びたいと思う
正直なことを言えば、40代になった今そんな質問をされたら、「どこにも戻りたくない、このまま早く人生をやり過ごしたい」というのが僕の答えなのだけれど、まあそれはそれとして

(続)

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