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人生の坂道を下る 過剰な男性ホルモンと中年の危機と親権のない子の話

40歳を「人生の正午」と表現したのはユングだったと思う
40歳を人生のピークとして、それ以降を人生の後半戦ととらえる考え方だ

40歳が人生の折り返し地点だという考え方は僕としても賛成だ
ただなんとなく、「正午」というのはしっくりこないな、と思う
午後2時くらいのほうが暑いよな、とか、午前って活動時間が短くて午後のほうが充実しているもんな、みたいな気がするからだ
僕としては、登山にでも例えたほうがわかりやすいと思うんだよな、40歳が山の頂点、そしてそこから先は一方的に下るだけ
ちょうど富士山が描く稜線みたいな

ぼくにとって40歳というのはそういう年だ
今僕は40代半ばというところなのだけれど、この感覚は40歳を過ぎてから感じるようになったんだよね
30代のころはまさか40を過ぎたら人生が下り坂に入るなんて思ってもいなかった


あちこちで書いているように僕は双極性障害という病気と20年来の付き合いだ
まあ、時々ものすごくハイになっちゃうタイプのうつ病くらいの感じで理解していただければよいと思う
だから僕は20代の頃からうつ的症状があるし、もっと言えば、医者から病名を付されたのが20代というだけで、感覚的には幼少期から軽度うつ的なメンタリティを抱えながら生きてきたという感覚がある
うつのベテランだ
一番しんどい時期(入院をしなくてはならないような時期)にはうつの代表的な症状は一式持ち合わせていた
まず希死念慮(自分の死を願う状態)、自殺未遂、気持ちの落ち込み、絶望感、睡眠障害、意欲低下、倦怠感、集中力低下、動悸、攻撃的な言動、ポジティブな感情の喪失
そんな感じだ
これらが全部まとめてやってくるというわけではなく、ある症状は常駐していたり、またある症状は時折やってきたり、そして症状も波みたいに強くなったり弱くなったりする
でもまぁ大体スタメンの症状が行ったり来たりしながらそれを薬やらなんやらでやり過ごすという方法はずっと変わらない
根本治癒の方法がないのだ


ところが、である
最近気づいたのだけれど、どうも40を過ぎたあたりから明確な変化が現れた
というのも希死念慮が非常に薄くなった
端的に言えば、「死にたい」と思うことがとても少なくなったし、死にたいと思う時でもその気持ちにあまり迫力がないというか、僕の自殺願望にガッツを感じない

あまり精神科界隈の話に詳しくない方のために説明すると、「希死念慮(きしねんりょ)」という言葉と「自殺願望」という言葉は、混同されることが多いのだけれど一応意味がちょっと違う
自殺願望というのが明確な理由(恋人に振られた、会社が倒産した、ガンになって毎日苦しい、と言った感じ)があって死んでしまいたいと思うことなのに対して、希死念慮というのはあまりそういった明確な理由がなく漠然と死にたいと思うことなんですね
(だから精神科界隈では希死念慮という言葉が一般的に使われる)
でもどちらも死にたいということは同じだから、ここでは両者をはっきり区別しないでまとめて希死念慮と書きます
あまり気にしなくて大丈夫

さて、その希死念慮が弱まっているという話なのだけれど、これと軌を一にして、僕の体にいくつかの変化が出てきた
ちょうど40の橋を渡るあたりで

まず、これまで薬を飲むことで改善してきた「意欲低下」がどうにも強まってきた
これは仕事だけでなく、人生全般に対して、例えば趣味とか恋愛とか(一応バツイチだから恋愛しても法律上は許されると思うんだけど大丈夫かな)あらゆる事に集中できない、ということもあるのだけれど、そもそもやる気自体がない、みたいな感じ

それから、男性機能の低下
僕は糖尿病もあるのでその影響ということもあるのだろうけれど、まじめに服薬を続けている甲斐もあって数値上糖尿病はすごく良い状態だ
勃たない云々の話ではなく、そもそも性欲自体が枯れてきたような感覚がある
おじいちゃんみたいだ

そして上でも書いた、希死念慮の希薄化
激しく「死にたい」と思うことがほとんどなくなった

全体的な感覚で言うと、自分の人生のピークが過ぎ去ったような「虚しさ」みたいなものが漂って、あらゆること(死ぬことですら)が億劫だと感じられるようになった


そんなことを感じる日々を過ごしていて結構悩んでいたんだけれど、ふと、これはもしかしてうつ病とは別の話なんじゃないだろうか、という考えに思い至った
それでいろいろと調べてみたんだよね

その結果僕がまずあたりをつけたのが「男の更年期障害」だ
最近結構聞くじゃないですか
男の更年期の代表的な症状が、疲れやすい、ほてり、うつ的症状、不眠、性欲低下、意欲の低下、記憶力の低下…とある
ぴったりだ、全部あってる
それで「男の更年期セルフチェック」というのをやってみると「中程度です。病院で相談しましょう」と出てくる
なぜだろう、病気かもしれないのに、病名が判明しそうだと思うとなんかワクワクしちゃう
興奮冷めやらぬまますぐさまネットで病院を検索して受診する
そこでも問診をされ、「確かに更年期障害の可能性が高いですね」と医師も言う
それで採血をして男性ホルモン(テストステロン)の量を検査するということになる
採血をして結果は1週間後という運びだ
休職中で毎日暇だからなんなら翌日にでも結果を聞きたいけれどそうもいかないらしい
ワクワクしちゃう

1週間後結果を聞きにその泌尿器科へ向かう
自分の中ではもう「俺は男の更年期、これからホルモン製剤の注射を定期的に打つことになるのか…早く良くなりたい」と思っている

診察室へ入ると医師が数字の並んだ紙を指示して、「ここ見てください」と数字に赤ペンで丸を付ける
「26.0」とある
医師はひとつ咳払いをするとゆっくりと話し出す
「これ、遊離テストステロンというもので、男性ホルモンの量を示す数字なんですね、これが低いと更年期障害なんです、だいたい8を下回ると更年期障害」
そこまでいうと医師は26という数字をもう一度赤ペンでぐるりと丸で囲む
「堀込さんはですね、26です、26」少し語気が強まった「40代平均値って8から20くらいなんです、堀込さんは26、これ、20代の男性だとしてもかなり高いほうです」
そこまでいうと医師はこちらに向き直って僕の目を見た
「堀込さん、あなたはとても男性ホルモンが多いです」
僕は褒められたのか、けなされたのかわからなくなって、「はあ」という気の抜けた返事とため息が同時にだらしなく口から漏れ出た
「堀込さん、今精神科にかかっているんですよね、おそらくそちらで相談されたほうがいいと思いますよ」
医師はそう言うと、じゃぁまたなにか機会があったら来てくださいと迷惑な営業マンをあしらうみたいな感じで、僕に背を向けてもう次の患者のカルテか何かを見ている

わたしは男性ホルモンの値が非常に高いのにもかかわらず覇気がない男だ、ということを明らかにするために6千円以上の金を支払った男


次に僕が可能性を疑ったのが、いわゆる「中年の危機」というやつだ
ミッドライフ・クライシスなんて言ったりする
病気というわけではないし、明確な定義もないようなのだけれど、調べると「中年の危機とは、中年期特有の心理的危機、また中高年が陥るうつ病や不安障害のことをいう」とある
ウィキペディアを見てみると症状としてはこんなことが挙げられている

・出社拒否などの職場不適応症、うつ病、アルコール依存症といった臨床的な問題
・空の巣症候群
・自己の限界の自覚
・達成する事の出来なかった物事への深い失望や後悔
・より成功した同輩・同僚に対する屈辱感・劣等感
・自分はまだ若いと感じたい、また若さを取り戻したいという思い
・一人になりたい、もしくは気心の知れた者以外とは付き合いたくないという欲求
・性的に活発になろうとする、もしくは逆に全く不活発になる
・自身の経済的状況や社会的ステータス、健康状態に対する憂鬱、不満や怒り
・人生の前段階で犯した過ちを正す、または取り戻そうとする

Wikipediaより

なんとなく自分の状態に近しいものを感じる

ちょっと前の話になるけれど、「何者かになりたい病(何者かにかりたい症候群)」という言葉が流行った
自分は他人とは違う、自分は何かを成し遂げる、みたいな、ある種の自己顕示欲とか承認欲求と結びついた話だろうと思うのだけれど、それと同時に「何者にもなれなかった」という感覚を持つ人もとても多いという話を聞く
英語を使って、何者か=somebody(偉大で価値がある人)、何者でもない=nobody(とるに足らない人)と言った感じの表現をマスメディアで目にした記憶もある
中年の危機というのはこの辺りの言説とも近い話なのかなという気がする


話がぼやけてきたので一度まとめてみる

僕のメンタル面に変化がある(とにかく何事につけやる気が起きない→副産物として死ぬ気まで薄れてきた)

なんか変だな調べてみよう

男性更年期ではなかった(男性ホルモンは異常に多い)

なんか中年の危機って言うのが近い気がする(病気とは言えないぽい)


さて、そろそろ僕の現状について考えをまとめてみたい


結論から言えば、僕は人生のピークを過ぎて既に人生の下り道に入っている
そして僕はその事実に抵抗するのではなく、それを受け入れつつある
ということだ


中年の危機とか更年期とか、そういったものに関する記事を読むと、それらをどう克服するか、シニア期に向けてどう体勢を整えるか、みたいなことがたくさん書いてある

正直言ってそんなことに僕は全く興味がない

僕はずっとうつ的症状(時々躁病的症状)に悩まされてきた
そのなかで、「本当のあるべき自分」みたいなものとの乖離、僕は何でこんな病気になってしまったんだ、何のために東京の大学を卒業して大企業に就職したんだ、何のために受験を頑張ったんだ、精神病院に入院するなんて俺の人生はどうなっちゃうんだ、そういう気持ちを抱えてきた

別に有名人になりたいとか大富豪になりたいなんて思ったことはないけれど、僕はただただ「一人前の男」になりたかったんだ
とても一人前の男とは言えない人生を数十年生きてきたから、理想とかけ離れている自分に対する忸怩たる思いがあった

ところが、40歳を超え、今僕は、何者でもない自分をすっかり受け入れている
だから焦燥感もなければ悲しみもほとんどない
それと同時に、上昇志向とか、意欲とか、熱意とかそういうものは綺麗さっぱりなくなってしまった
半額シールが貼られた後のお弁当売り場みたいだ、棚に何も残っていない
だから、焦りを感じない代わりに、何かを頑張りたいという気持ちもほとんどないし、生きていく目標みたいなものもない


僕の人生にもう目標みたいなものはなにひとつない

こういうことから考えれば、最初に書いた希死念慮が薄まった、というのはつまりこんな風に表現できると思う

死にたい理由がないのではなく、生きたい理由がなくなった


だから希死念慮の気持ちは薄まったけれど、もしも、いくつかの外国の国のようにわが国でも安楽死制度が法制化され、安らかな自死が可能となったならば、僕は安楽死をしたいと思う

そういうことだ

別の記事でも書いたけれどもともと僕は長生きがしたいタイプではない
60歳まで生きられたら御の字だと考えている

でも、ひとつだけ思うことがある
僕には離婚した元配偶者との間に子がいる(ぼくには親権はないけれど)
彼とは月に何回か会うのだけれど、僕は彼のことを心から愛している
愛しているなら離婚するなと言われることがよくあるのだけれど、それとこれとは別なんだな
とにかく僕は彼のことを愛しているから、できれば彼が成人するまでは生きていたいと思う
彼はまだ小学生だからあと10年くらい生きたい
それまで毎月しっかり養育費を払いたいし、できれば進学の費用を工面してやりたい
欲しいものを買ってやりたいし、なんでも力になってやりたい
母親にはできない相談を僕にしてほしい

もし彼が無事成人したとき、僕は「よし、もう充分生きた、これでいつ死んでもかまわない」と思うのだろうか

もちろんその時になってみないとわからないし、明日事故であっさり死んでしまうかもしれない


僕は自分の人生の坂道を下っている
ピークはとっくに過ぎた
それほど高くもないし、景色が良いわけでもない頂上ではあったけれど、とにかくそこはもうとっくに通り過ぎた
上り坂になることは二度とない
すこし足元がぬかるんだり雨が降ったりするかもしれない
でもたいした変化はない
道はだらだらとした下り坂で、次第に日が傾き、やがて太陽は地平線の向こうに沈んでいく
そしてひっそりとした夜が訪れる
時々、反対から人生の上り坂を登ってくる若者とすれ違って「こんにちは」と挨拶を交わすかもしれない

向こうを見ると、わが子が人生の坂道を一生懸命に登って行くのが見える
「大丈夫か、パパと手をつなごうか」僕は言う
「パパ、大丈夫だよ、ぼくもう自分で登れるよ」彼は言う

そうやって穏やかに坂道を下りながら、どこかで川を渡る時が来るのを静かに待ちたい

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