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いつまでも足踏みしている、日記

最近は落ち着いていた摂食障害の症状がひどくなっていて、その流れを断ち切ろうと断食をしたのに、私の体はリセットされなかった。

過食嘔吐はひどくなるばかりで、自分に呆れる。
中学の頃から、行ったり来たりもがいたりして、一歩も前に進めていないんじゃないかと思ったりする。
以前は食べたいものが食べられない状況に「我慢」できなくなって過食し、その「罪悪感」から嘔吐していたのに、我慢も罪の意識も必要ない今、何のために過食嘔吐しちゃうんだろう、
私は何がしたいのだろう、何を求めているのだろう。

そして、同時に生きる力が湧いてこない。
これはわざわざ記しておきたいくらい珍しいことで、いつ死んでも良いや!と思うことはあれど、もういいか、、と思うことはあんまりない私の、状況の悪さがよく分かる。
でも、死へ思いを馳せることやそこに希望を持つことはない。その思考さえ「そんな」ものと思える。くだらなく、何の解決にもならず、意味のないものに見える。
つまり、生きるとか死ぬとかどっちでも良いけれど、どちらにしても変えたい!今の私から脱却したい!
大人になったな(笑)

私は人生に希望がある。
親がいる、兄がいる、犬がいる、家がある、友達がいる、愛しいと思える存在がいる。好きなものがあり、それに費やす時間とお金がある。恵まれた環境にいる。
ただ生きるだけではない、余白とゆとりがしっかりある。
だから、環境要因ではないと言い切れる。

つまり、私の内側にある生きづらさ。
摂食障害、潔癖、不快感、苦手意識。
これらは単体として力を持たず、さまざまな事柄に派生して効力を発揮するから、日常生活に苦労する。
この積み重ねが、次第に「こんなふうに生きるくらいなら」に変化していくんだろうな。

ここまで自己理解を深めても、この先の「どうしたいか」は出てこなくて、先の人生へのこだわりが必要なんだと思う。
私は意外と単純な人間だから、心が充実すれば次第にやりたいことや欲しいもの、行きたい場所など出てくるんじゃないかな。
心の充実に必要なのは食だと思うけれど、摂食障害がひどい今の状況での自己管理は難しい、

あとは自信をつけること。
摂食障害も自己肯定の低さと関連があるし、自信がつけば外に向かって思考も身体も動いていく。身体とか能力、評価とか、
身体は置いておいて、能力と評価は今すぐにでもやれることがある。勉強したり周囲に自分について語ってもらったり、やり方はいっぱいあるよね。


こうやってそれっぽいことは書けても、こんなことをやったらそれこそ死にたいくらい疲れそうだから、分かっているくらいでちょうど良いのかもしれない。
それに今は、無力感が何もやる気を引き起こさない。
つまり何も変わらず生活を続けなければいけないので、結局一歩も前に進めていないのでは、?

とりあえず今の思考が書けていれば十分と言うことにして、
寝て起きて、またそれから考える


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