BTS、救済の文学(後編)
*BTS、救済の文学(前編)はこちらです。
(以下、後編です。)
孤独者どうしの連帯
BTSはこのような共同体の連帯には危うさが付きまとっていることを明確に自覚しており[1]、ファンたちに別の筋道を用意している。それが、孤独者どうしの連帯である。
RMはドキュメント番組[2]の中で「7人は船に乗っていて、異なった方向を見ていますが、同じ方向に進んでいます。それが、私がBTSを証明する方法です」と発言している。また、Yet To Come(2022)MVでは、砂漠の中でメンバーが全員同じ一台のバスに乗りながらも、誰とも視線を交えない映像が長尺で映し出された。さらに、2022年の年末の釜山コンサート(後に映画化)では、終盤に披露されたSpring Dayにて、今度はメンバー全員が同じ一両の列車に乗車して、それぞれが異なった方向を向くパフォーマンスが披露された。
この一連のメッセージは「創造者の求めるのは道づれであり、自分の鎌を研ぐことを知っている者である」という『ツァラトストラ』の言葉に符合する。つまり、彼らは同じチームの「道づれ」としてこれからもいっしょに歩いていくが、それはあくまで自己研鑽を続ける個人どうしの関係性としてであることを明確にしているのである。お互いの異なりを意識しているからこそ、それぞれの創作について干渉しない作法が共有されていることは、2022年末から始まったメンバーたちのソロ活動の経緯をみても明らかである。
このことを考えるとき、BTSはARMYに対しても「道づれ」でありながら、あくまで個人であることを求めていることは想像に難くない。
ファンたちに高い人気を誇る曲のひとつにMikrokosmos(2019)がある。この曲の中でメンバーたちは、漆黒の夜の中で私たちが互いの光を見出したことを歌う。そして、私たちひとりひとりが個別の歴史を持っており、だからこそ、私たちひとりひとりはそれぞれひとつの星として輝いていることを歌う。
輝き(shine)とは、ニーチェ的に言えばつまり仮象(Schein)であり、BTSはすでにSeaの中で「海を見て砂漠を見てこの世界を見る/全てが等しい/ただ名前が違うだけで」と歌っていた。つまり、私たちの世界認識の範疇には、想像的に生じる仮象(Schein)しかなく、物自体としての表象(Vorstellen)も、象徴的な現象(Erscheinung)も、つまるところは仮象であり、仮象のひとつひとつが孤独な輝きを放っているにすぎない。その点から見ればこの世界は「全て等しい」のである。
私たちは不安だからこそ、仲間を見出そうとする。孤独だからこそ、お互いを求め合ったりする。こういうひとりぼっちの感覚こそがお互いをつなぐ引力であり、そういう引力の中でこそ、ひとりひとりが輝くことができる。だが、輝く(shine)ためは仮象(Schein)であることを自覚する明晰さと謙虚さが必要である。
ニーチェは、私たちはいかなる事実自体をも確かめるすべはなく、あるのはただ解釈のみであると述べた上で、ルサンチマン、つまり弱さと卑小さの本質が解釈への意志にあることを看破した。もちろん、事実自体を求めようとする意志はあってよい。しかし、それが解釈への意志に転んだとき、つまり仮象を易々と実体化し、実体化された化け物に対する疑いを失ったときに、その輝きは永久に失われるのである。
私たちは仮象(Schein)として輝く(shine)とき、お互いの光を見ることができるし、ひとつの星座をつくることだってできる。別々の軌道を回っていて、何万光年も距離が離れていても、同じ星座をつくる道づれとしてひとつの軌道を進んでいくことはできる。
Mikrokosmosで歌われたのは、生半可な絆の連帯ではない。集合的記憶によって人為的に醸成された共同体意識でもない。それは、はなればなれに生きる個人どうしが、お互いの光を見出しながら細々と歩む、孤独な魂の連帯である。
自分を愛することで主体性を恢復する
>自分を愛すること(to love myself)は、死ぬまでずっと僕にとっての目標で あり続けます。自分を愛するとは何なのか、あなた自身を愛するとはどういうことなのか、僕には見当がつきません。いったい誰が自分自身を愛する方法や法則を定義できるでしょうか。それは僕たちそれぞれの任務です。ひとりひとりが自分自身の愛し方を見つけ、明らかにしていくことが僕たちの任務なのです。
これはニューヨークのライブ(LOVE YOURSELF Tour in New York 2018)におけるRMのメント[3]を和訳したものだが、この発言は『ツァラトストラ』の一節、「自分を愛することを学ぶということ、これは今日明日といった課題ではない。むしろこれこそ、あらゆる修行のなかで最も精妙な、ひとすじではいかない、究極の、最も辛抱のいる修行なのだ」からの換骨奪胎であり、この箇所を噛み砕いて彼なりに言い換えたものであろう。
狂気の崖の上に立ちながら、自分を愛し、信じることを唱えたニーチェのエゴイズム[4]から発想を得たBTSは、LOVE MYSELFキャンペーンを通して若者たちに主体性の恢復を呼び掛けた。そして、「自分を愛するために、BTSを使用してください(Use BTS)」とファンたちに訴えた[5]。さらに、個々のアイデンティティを創出する装置として、ARMYという共同体(ファンダム)の帰属意識を利用することさえも厭わなかった。これがBTSによる「救済」の全貌であり、彼らがここまで徹底してやらざるをえなかったところに、彼らを含む若者世代の揺らぐ主体に対する強い危機意識が感じられる。
BTSのポリティクス
2018年のRMによる国連演説を皮切りに、国際舞台での発言が注目されるようになったBTSだが、コロナ禍が世界的に蔓延した2020年にリリースされたDynamiteのグローバルヒットをきっかけに、彼らは世界規模でエンタメ界における象徴的存在となった。アメリカ社会でその存在を認められたことの影響は大きく、2021年のメンバー全員による国連演説や、2022年5月のホワイトハウス訪問とバイデン大統領との会談など、特にアメリカを中心とする資本主義圏における彼らの社会的ステータスは頂点にまで上り詰めた。彼らが過去にアメリカで成功したいという野心を隠すことなく披露してきたことを踏まえれば、これはまさに彼らの夢がかなった状況と言える。
一方で、RMは「我々が属している社会問題や不条理に対して沈黙せずに、それを取り壊し、問題提起をするために歌詞を書いている」[6]と自身の活動における公共性について具体的な発言をしたことがある。つまり、アメリカをはじめとする世界での成功に伴って国際的な発言力を増すことは、彼らの望んだシナリオ通りの展開と言っても過言ではない。実際に、BTSは社会問題に対して積極的にアクションを起こしており、例えば2020年には「偏見は許されるべきではない」という声明とともにBLM運動に対して百万ドルの支援金を寄付しているし、また、2021年の大ヒット曲Butterに込められた人種差別に関わる隠喩表現[7]はコロナ禍におけるアジアンヘイトに抵抗すべきと考える多くの人たちを勇気づけるものであった。
しかしながら、ファンダムを含めたその影響力が増すにつれて彼らの葛藤は増していく。先の言及と矛盾するようだが、RMはもともと詩作の人であり「実は伝えたいメッセージなんてない」[8]と急に口走るような人である。つまり本来の彼は、言葉それ自体を楽しむような自己目的的な芸術にこそ惹かれているのであって、問題を解決するために誰かを特定方向に導くようなメッセージを放つことを積極的に好む人物ではない(2022年のRMのソロアルバム『Indigo』はそれを裏付けるように、絵画的な抽象性を高めた作品であった)。RMは「政治的正しさ」の代弁者として振舞うようになった現状に対する悩みを、テレビ番組の中で次のように打ち明ける。
>(社会から)疎外されている人たちが、僕たちを情熱的に応援してくれている。それを知っておかなきゃいけないという話をされましたが、僕はものすごく戸惑ったんです。なぜなら、僕はただ自分がしたい話をしただけだし、(その人たちが)僕たちに愛をくれたから、その人たちに献身的に何かをしただけなのに……。マイノリティたちが、僕たちをホワイトハウスと国連の中心にまで連れていったんですよ、ある日。自分のアイデンティティについてすごく悩んだのは、「果たして僕にその資格があるんだろうか」ということです。ただ(ファンダムの)エネルギーが集まったからといって、そのエネルギーをこれほど影響力のある場所で使ってもよいのか。道徳的、倫理的、あるいは時代的な、そんな資格が自分にあると思えるのか。それは傲慢じゃないのか。そんなことをたくさん考えました。[9]
かつてはアイデンティティ・ポリティクスが差別への抵抗に対する運動の基本形であったが、現在では非当事者であっても権利や正しさを共有する市民として連帯して声を上げることが、差別に対抗する運動として広く認知されるようになった。アメリカのテイラー・スウィフトやビリー・アイリッシュといったセレブリティたちも、属性にかかわらず、差別や不公平に対してそれを是正するために声を上げ、間違いに対しては毅然と批判する姿勢が大きな支持に繋がっている。
しかし、個別のアイデンティティから離れて市民の立場として発言することには、大きな懸念が付きまとう。確かに、当事者たちは戦略的には市民の力を借りて団結しなければ戦えない。団結を通して特殊性から普遍性へと舵を取らなければ、誰も見向きもしないし、その意味では個人は個人である限りにおいて永遠に敗北し続けるのである。
だが、普遍への移行は、特殊性の弱体化を意味する。なぜなら、マイノリティの内部は決して一枚岩ではないからである。その中には個別の葛藤があり、到底ひとめとめにできるものではない。
共同体が擬人化され、独り歩きし始めたとき、実体化された集団に対して個人は隷属するほかなくなる。仮にそこで個人的抵抗を試みれば、「お前はレイシズムに間接的に加担している」などと非難を浴びるのだ。こうして個人は息の根を止められてしまう。ここに根深いアポリアがある。
市民が正しさを携えて声を上げるとき、彼らは自らの共同体を個人に先立つ独立の存在として実体視するために、自らが個人の葛藤を飛び越えて発言していることに気づかなくなる。RMはその点を捉えて「傲慢じゃないのか」と自らに問うのである。しかもメンバーの背後には世界規模のファンダムであるARMYがいる。彼らは過大なハンドルを握らされていると感じているはずである。彼の問いは、政治的正しさに対して市民として声を上げるARMYに対しても同様に向けられているはずである。
BTSは世界のダブルバインドな複雑性を捉えながら活動をしてきた。そんな彼らが社会問題と向き合う方法は、アイデンティティに根差すことに臨界点までこだわりながら、それでも必要なときには団結して声を上げる、そういったアンビバレンツな姿勢にならざるをえないだろう。
波打ち際に立つ「私たち」
世間から祭り上げられ始めると、たいていの組織は流れに逆らえずに事実上自滅していくところだが、彼らは自らその流れを止めるという政治手腕を発揮してチームの存続のために尽くした。それが2022年6月の防弾会食であり、この際には、グループとしてアルバムの発表やそれに伴うライブツアーの開催を当面は行わないという方針等が示された[10]。
このタイミングでグループが今後の方針を示したのは、メンバーの兵役入隊が始まることが直接的には大きく関係しているが、それ以上に決定的な理由としては、BTSというグループ、さらにARMYを含むBTSという「総体」がこれ以上肥大化することを食い止めなければならないという強い危機意識があったからであろう。
彼らがBTSというチームとして表現活動を行う限り、世間では、その活動は全て何らかのポジティブな解決的なメッセージを有するものではならなくなっていたし、さらに社会的に手本となる正しい振る舞いであることが期待されるようになっていた。そんな立場に祭り上げられたままであれば、彼らの表現活動に自由はなくなる。目的的に消費され尽くして、チームは死に体になってしまう。さらに市民としての正しい振る舞いを牽引することを通して、結果的にその立場でこそ得られる甘い蜜を吸うことになってしまう。
会食の際にRMが「チームとして伝えることがなくなった」と語ったのは、このことを背景にしたBTSというチームの行き詰まりが反映されている。いつの間にかチームとして重い荷物を背負わされた彼らが、ソロ活動を通してひとりひとり自由な魂を果敢なく発揮し、そして数年後に、7人揃った彼らが新たな輝きを増してファンたちの前に現れることを待つばかりである。
BTSが波打ち際に立ち続ける限り、彼らの文学は続いていく。そして「彼ら」の中にはBTSを愛する「私たち」も含まれる。「私たち」は今日もBTSの動画やコンテンツを反復し、そのイメージを再生産する。このことを通して「私たち」は共通の歴史を有し、その歴史を新たに更新する。このような、国家規模の共同体[11]を構築する力学の強度に、BTSを世界文学と呼ぶ所以がある。
しかし、それだけではどうしても足りない。「私たち」はひとりひとりが仮象の輝きであり、独りぼっちどうしの連帯である。「私たち」は独りぼっちの輝きの中から、声なき声を聞き取らなければならない。そのことを通してBTSという文学を自らの手で新たに物語り直していかねばならない。
波打ち際に立つ勇気が、我々ひとりひとりに求められている。
わたしが愛するのは、おのれの没落し、犠牲となる理由を、星空のかなたに求めることをしないで、いつか大地が超人のものとなるように大地に身を捧げる人たちである。
フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラ』
[1]彼らはインタビューや楽曲においてファンたちに付かず離れずの「平行線の関係」でいることを呼び掛けると同時に、主体化における相手の「使用」への自覚を促す(詳しくは拙著『推しの文化論』7章を参照のこと)。さらに、彼らはBTSに依存するファン心理を挑発する曲も発表している。「悪いことだからさらに良い。ほんとはわかってるんだろ、もう止められないよ」というジョングクの囁きで始まるPied Piper(2017)はその代表例で、「僕は君の楽園」「ちょっと危険だけど、僕は甘いから」「君をダメにしにきたよ」と妖艶な表情のメンバーたちが甘い言葉を畳み掛け、それに対してファンたちが熱狂的に応えるライブの映像は圧巻である。大人たちが獰猛に禁断の果実を貪る姿がそこにはあり、その危険にこそ身を浸していたいと思わせるただならぬ魅力が漂っている。この曲タイトルPied Piperはドイツの昔話「ハーメルンの笛吹き男」に由来している。つまり、自他境界を失うファンたちの危うさを、笛吹き男の笛の音に誘惑されて洞窟に閉じ込められるという破局に重ねているわけで、そのような彼らのメタフォリカルでサディスティックな振る舞いに対して、ファンの熱狂は天井知らずに高まるのである。
[2] BREAK THE SILENCE:DOCU-SERIES(2019)より。
[3] メント(멘트)はセリフ、アナウンスメントのことで、K-POP界では特にライブ中にメンバーが行う談話、コメントのことを指す。
[4] J-HOPEのソロ曲 Outro : Ego(2020)はまさにニーチェのエゴイズムをテーマとする曲である。この曲の収録アルバム『MAP OF THE SOUL : 7』の収録曲には、ペルソナ(人間の外的側面)やシャドウ(影)、エゴ(自我)、セルフ(自己)といったユング心理学で多用される言葉が頻出する。これらのユングの用語は思考の道具として用いられているものの、歌詞内容は全般にニーチェ的である。
[5] LOVE YOURSELF Tour in New York 2018
[6] 韓国ヘラルド経済(2018.6.15)
[7] Butterにおけるイメージカラーはイエローで、RMはこのことについてネット配信動画(V LIVE)の中でただ一言だけ「僕たちは黄色人種じゃないですか」と発言した。同曲MVでは、ホワイト、ブラック、イエローの三色を基調にしながら、さらにグレーやレインボーカラ―の衣装を披露していることから、人種やジェンダーにかかわる差別問題についての隠喩が含まれていると受け止めることは難しいことではない。ちなみに、同曲の中で「HATE US(オレたちを嫌ってみろよ)」と叫び、自作曲の中で文法的に破綻した英文の歌詞を(おそらく故意に)書くこともあるシュガは、楽曲の中に強烈なカウンターを忍ばせている。シュガは2023年4月にAgust(アガスト) D(ディー)名義で出したソロアルバム収録のPolar Nightにおいて、物事を単純に二項対立化し、感情の波に流されるままに敵と味方を措定して敵の息の根を止めるまで糾弾する昨今の言論やマスコミを批判し、政治的正しさ(ポリティカルコレクトネス)も結局のところ自分の解釈の一方的な押し付けになりがちであることを指摘している。この曲のメッセージは、正義に居直ることを警戒しながら問題の錯綜した複雑性を見ることを諦めないことを歌ったUGH!(2020年)のメッセージに連なるものである。米国の音楽の(カントリー界など一部を除く)メジャーシーンの大勢がリベラル一辺倒で支持を集めていることを考えれば、シュガの発信はアンビバレンツな複雑さを抱え込んでおり一線を画している。
[8] ドキュメント番組BREAK THE SILENCE: DOCU-SERIES(2019)より。
[9] RMが司会を務めたtvNのテレビ番組「知っておいても役に立たない神秘的な人間雑学事典」(2022)より。日本語訳は朴琴順。
[10] 「防弾会食」というタイトルのとおり、メンバー7人が会食し、酒を飲みながら交わすざっくばらんなやりとりの中から、ファンたちはメンバーたちのセンシティブな感情を受け取るとともに、彼らの今後について重要な情報を受け取ることに全力を傾注したが、そんなファンたちの間でさえ、メンバーの発言に対する解釈は一致せず、様々な憶測が飛び交った。
[11] BTSのツイッター公式アカウントのフォロワー数は約4850万、インスタグラム公式アカウントのフォロワー数は約7400万、同じくインスタグラムにおけるメンバー6人(アカウントを削除したジョングクを除く)のフォロワー数合計は3億に迫る(2023.7)。
(群像2023年9月号)