
私にとっての最大の向き合い①~両親妹への想い~
7月。今、私の目の前にある事で、私に出来る事を大切にしよう。今を大切に生きる事が使命。
そう思った私は、1度きちんと受診しよう、そう思いました。
発達障害についても、自己判断だけで、曖昧なまま自分を受け止めて受け入れているだけではなくて、専門医の診察を受けて、可能なら必要な検査を受けて、診断を受けようと思いました。
医学的な視点からの自分を知って、その自分を肯定して、もしも何か治療が必要なら受けて、きちんと心を治して、今後を生きていきたいし、そうしなければと思いました。
精神科・心療内科受診。数日間考え迷った後は、決心も揺らがなくなり、初診予約を取りました。
この記事の執筆を始めた後に、精神科医不足、予約3ヶ月待ちの地域があるというニュースを見て、私の執筆は無責任になるのだろうか...と感じて、しばらく執筆する事をやめて迷いました。
でも、受診する事や専門の方を頼る事は大切な事だという気持ちから、やはり執筆しようと思いました。
以前、両親達の事を考えないように敢えて、また家計的にも必要で、過度に多忙に過ごしていた日々は、自分に受診が必要だという事に気付いていませんでした。(無意識に気付かないようにしていたのかもしれません。)
前職退職後、心は既に拗れていて、私は自分の気持ちや言葉を、相手に伝わるように話す事が出来ないという思いと、例え話しが出来たとしても誤解をされる。きっと理解してもらえない、という思いから、これ以上心が傷つく事は耐えられないと、自分を保てずに崩れてしまうと真剣に思い、生きていけないと思う程に怖く、受診する事が出来ませんでした。
そんな私でしたが、自分と向き合ってきた取り組みで、内面に変化がありました。
note記事に執筆した過程を経て、どんな自分でも、ありのままの、この自分で生きていいと、自己肯定と自己受容が出来るようになりました。
そうなれた事で、自分で自分を本当に大切にしようと思い、自分で自分を受診させようと思えるようになりました。
そして実際に行動出来た事は、素直に驚きと成長を感じました。(受診については後に再度もう少し触れようと思います。)
受診予約をした後、今までの向き合いを振り返る時間がありました。
自分と向き合い、約1年半。
本当に、沢山の方々に助けてもらってここまで継続して来られた事を実感しました。私1人では到底続けて来られなかった、不思議にも思える道のりでした。
そして、振り返った私は、思った以上に、自分が体験した事に意味づけを感じてしまいました。
実家の両親、妹に対して、以前、諦めた気持ちが再燃しました。
もう、家族1人1人、個々の生き方は個々の自由だからと思い、私から何かを言う事は諦めて、納得したはずだったのに、
両親、妹をなんとかしたい。
私が体験した事を伝えたい。
何をどう出来るかもわからないのに、両親、妹を助けたい。
なんとかしようとする事が私の使命なのでは?
そのための昨年からの私の体験だったのでは?
今この時のための、一連の体験だったのでは?
そういう思いに、囚われました。
今回、この気持ちに、再度深く向き合う必要があるんだと受け止めました。
今の私にとって、もしかしたら1番大きな向き合いになるかもしれないと、なんとなく思い、気持ちに蓋をせず、焦らず、丁寧に向き合いました。
(この後、私と内面の私、心の葛藤を書いています。言語化が細かいかもしれません。読んで辛くなると感じられる方は、読む事をおやめください。
①②ともに、ご自身のタイミングで、無理のない時にお読み頂きたいと思います。よろしくお願いいたします。)
自分と、内側の自分との対話になりました。
ちなみに言い争いではなくて、穏やかに冷静に意見を出し合っている感覚でした。
いやいや待って。
そう(助けたいと)伝えてどうするの?
前にも思ったよね...?両親、妹、本人達が希望しない限りは、無理なんだよ?
何年も、何十年も、本人達は今の宗教を信じ続けて、生きてるの。それが現実なの。
今さら、私から何も言う事出来ないでしょう?
わかってる。そんな事わかってる。
わかってるけど、もしも両親、妹の、心が辛くて信仰に頼っているのなら心を助けたい。癒したい。
私に出来る何かがあるならサポートしたい。
本当に私は、何回、考えて、何回迷うの?
何回、自分を試すの?
だって愛だと思う。この気持ちは。
どちらも本音本心でした。
自分が自分を信頼しているから発生した、私の内側での話し合いでした。
自分の中で答えを出すためには、何でも正直に、どんな感情も正直に見つめて話し合って、ちゃんと葛藤する必要がありました。
ただ、この葛藤時に、とても苦しみが伴います。
でも、私には、乗り越えるために必要な葛藤でした。
身体には、正直な反応も出ました。
思いに囚われた私は、心や身体に力が入って、息が苦しくなりました。
両親、妹への思いと、今までの向き合いで気づいてきた事、気づき直してきた事が、葛藤しました。寝込む程の腹痛を伴いました。その時は、抵抗せずに力を抜いて、横になって過ごしました。
なんとかしたい、は、私のエゴ。
なんとかしたい、しなければいけない、というコントロール欲。
相手の事を考えて、相手の事を思って、
相手の心を楽にしたい、という思いから、
相手に幸せになってほしいから、という純粋な気持ちからだけれども。
相手を大切に思って、相手への愛だけど。でも、
「助けたい」
その見かたは、私の価値観、私のバイアス、私のフィルターを通した見かたでした。
相手からしたら、それは私側の勝手な見かたで、「助けなんて、必要としていないよ?」と感じる事。
だから、それは、私からの、一方的な、押し付けの愛でした。
それはいらないもの。
過去、父親が、愛情から、私に押し付けた事と同じ事。
父親からされた事と同じ事をしようとするの?
以前、過去の私は、反発して家を出たよね?
いくら伝えたくても、良かれと思っても、私からは愛や優しさだと思っても、それは、必要のない事なんだ、と痛感しました。
相手から、望まれなければ、必要ない事。必要のない思い。
それに、相手が望まない事を伝える事は、相手の今までの人生の時間を否定してしまう事になる気がしました。
私は、もう何も否定したくありませんでした。
私は、肯定したい。
自分の事も、相手の事も、誰の事も。
全部肯定したい、全部受容したい。先日思った事でした。(前回記事)
私がその事をブレなく自覚する、私のエゴの削ぎ落としの時に感じました。
なぜ、私はここまで、こんなふうに考えるの?
こんなふうに考える人っているのだろうか?
私は変わっているから?こんなにまで考える?
こんなに考え過ぎる?
苦しみの時は、色々な思考も加わり、余計に辛くなりました。
でも、そうやって考えながら、螺旋階段を通過し、トンネルを抜けて行く時でした。
焦らずに向き合う、一定の時間が必要でした。
考える事自体をやめる時も大事で必要。
考え続けてそこを抜けて行く時も大事で必要。
1番に、心身に無理がないように、その判断は自分でする。
この時もそう思いました。
※特定の宗教や、何かに対する信仰心を否定批判する意図は全くありません。
私個人の体験の拗れた心理、その記録と、そういう心理に寄り添い、言語化して辿り、心を楽にしたい、という事が執筆の理由です。
②に続きます。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。