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『主に従う者の価値』

2024年12月15日

 アドベント3週目、クリスマスといえば東方の博士が星に導かれて…という話を聞くと思います。この星が動いて博士たちを導いたという話、信じられるでしょうか?実はあまり知られていませんが、地球から見た星の運動は一定ではなく逆転する場合もあるのです。正確には地球と星の公転位置の関係で逆転したように見えるということで全くあり得ない現象ではないのです。すべてを照らすまことの光が世を照らし導くように。

さて、今日もルカによる福音書のなかからキリストに従っていく弟子たちの姿についてお話しさせていただきます。この話もパンの奇跡、ヘルモン山での変貌に続く、関連のある話となります。

■ルカ9:57~62
一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

まず、この話の背景としてキリストと弟子たちがサマリヤに近くに南下して移動しており、エルサレムを目指しているということを覚えておいてください。そして、その移動のなかに2つの話がルカによる福音書に記されています。ひとつは12弟子のなかでは自分たちのなかで誰が一番偉いかという論争です。(ルカ9:46~50)もうひとつはサマリヤの村を通った時にキリストが歓迎されなかった時にヤコブ、ヨハネが見せた反応です。(ルカ9:51~
56)この2つの話から、キリストが十字架の死を背負ってエルサレムに向かおうというこの時でさえ、弟子たちの信仰成長に大きな不安があったことを示しています。

そんななかでキリストは従ってきている人たちに「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と語り、「父を葬りに行かせてください」と言う人に「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」と告げたのです。ユダヤ人は律法にもあるように父母を非常に大切にする習慣を持っていたのでこのキリストの言葉にはちょっと非情なように感じてしまいます。

これがキリストに従おうとするクリスチャンの覚悟だとしたら、躊躇する者がいても当然なのではないかと私は思います。キリストに従う者には「枕する所もない」のだと言われたとしたら、「いや、せめて寝るところぐらい欲しいです。」と言いたくなりますよね。
それに父を葬りに行かせてあげるぐらいしたっていいじゃないかと思わないでしょうか。ちょっとこの部分、キリストの言葉が厳し過ぎるように思えます。

皆さんはどう思われるでしょうか。


【まとめ】

この「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」の言葉、キリストが十字架に向かって行く悲壮な心情を表しているように思えますが、もし、弟子やクリスチャンにその悲壮感をもって歩まねばならないとしたら、クリスチャンの生き方に喜びというものはあるのでしょうか。
空の鳥に対してキリストが言った別の言葉を思い出してください。

■ルカ12:22~24
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。

ここでキリストが語ったのは「枕する所もない」という悲壮感ではなく、すべてを神に委ねて歩むクリスチャンの道のことを言ったのです。確かに人間的に安定した豊かな住処を得るというのは大事なことです。でも神はそれらのことをすべて知っておられ必要に応じて与えてくれるのです。例え、そうでないとしても私たちが従って歩む道のなかで住処のことで長く悩まされ続けるということはないのです。

次に父を葬りに行かせてほしいと言った人についてですが、この人の父親は危篤だったのでしょうか?あるいは死んでしまったのでしょうか?
これは私の予測に過ぎませんが、どちらも違うのではないかと思います。なぜなら、彼らはキリストとともに旅をしていたからです。父の死を気遣う人が死んでしまいそうな父を置いて旅に出るとは考え難いです。また、急な訃報としても彼らは恐らく住んでいた地域から離れた場所にいたでしょうから、すぐに知らせを受け取るなどということはできなかった可能性が高いのです。
ですから、これはその人の心配事だったのではないかと考えます。高齢の父が天に召されるまでは傍にいて、無事に天に送ったあと、心配事が無くなったらキリストに従おうとこの人は考えたのではないでしょうか。
このところの「まず、父を葬りに行かせてください」の「まず」はギリシャ語の「πρωτον(プロ―トン)」で「第一に」という最上級の副詞が使われています。この人はキリストに従うことを第一としなかったのです。

先週は「神のみ旨」の話をさせていただきましたが、ここでは弟子たちや従ってきた者たちの人間的な思いが吐き出されています。誰が一番、偉いかなど議論していた弟子たちに子供のような心で小さな者として仕えなさいと言われたこと、キリストの名のもとに悪霊を追い出していた人たちをやめさせた上から目線のヨハネ、極めつけはキリストを受け入れなかった村を神にでもなったように滅ぼしましょうと言い放ったヤコブとヨハネ。
皆、神のみ旨を知るということを理解できていないのです。

「神のみ旨」を知るということは勿論、神の計画のなかで自分が成すべきことを知るということでもありますが、最も大切なことは一時の欠乏に悩むことはあってもキリストに従うものが欠乏に陥ることはないということなのではないかと思います。神は従う者を何より価値あるものとして覚えられているのです。その神が私たちの思いをないがしろにすることなど決してないのです。

■マタイ6:31~33
だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

迷いのなかにある人に確かな導きが与えられますように。