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濱口竜介「悪は存在しない」

父親の起こすラストの行為の唐突さや少女がさ迷った末の突然の邂逅の意味や理由の所在。
なぜ?どうして?などというのは無意味だ。我々は映画を見ているつもりなのかもしれないが、映画に写る人たちの人生を、過去を、心の動きを、見ているわけではない。そんなものを(想像することはできても)見ることはできない。
濱口竜介は土地と人、社会と時代のありのままをキャメラを通して提示しているように見せて、その実、何の前触れもなく私たちと映画という世界の梯子を外す。
不可解に思えたならそれが正しいのかもしれない。理不尽に感じたならそれが正解ではないか。人間のことは人間にはわからない。まして自然のことも。
誰もが誰もの都合を持っていて、誰もに誰もの生活があり、自らの土地と自らの生き方と自らの身体と自らの精神とを抱えた自分だけの過去・現在・未来、人生を持っている。他人は他人であり自分は自分である。わかりあえないということのわかりやすさに誰も気づけない。
人はそれぞれの現実を生きていて、それは土地であり時代であり社会である。誰よりもその土地の生活に精通した人間が、その土地のことを何も知らない人間の素朴な問いかけに行き詰まることがある。そしてそれがラストに残される疑問を想像する端緒となるのだろうか。
しかし物語は始まることも終わることも拒否されている。それを投げ出されたと感じたのなら勘違いだ。
人と人。人と獣。獣と自然。自然と人。あらゆる違いがあらゆる可能性を内包して、それは時に得体の知れない結果を生み出す。原因があり結果があると思えるのは人間の都合だ。
口当たりのいい理由も、組み合せしやすい結果も、都合のいい真実などというものはありえない。だから、悪は存在しない。
それは陽光にさらされる松林を見上げながら石橋英子の不協和音が鳴り続ける冒頭から明らかだ。まるで黒澤明「羅生門」をオマージュしているだろうその映像は、松林を娘とともに歩く木こりが説明するように、ある松林というものががそこにありながら、それぞれは違う松であり、また松のなかに別の木々もあるという、一つの自然の様々な位相を見せている。
一本とて同じ木はないのだ。同じに見える木も違う育ち方、違う形をして、互いに関わりながら避け合いながら、同じ太陽に向かって伸びている。人間たちもまたそうなのだろう。
自然とともに暮らす地元住民とその理解を得ることなく営利を追求してグランピング場を建てようとするマネージング会社。よくある映画的な図式に当てはめてしまえば、昔から自然と共生する住人たちが善で、影響を無視して自分たちの利を詰める会社側は悪になるのだろう。
しかし木こりの男が説明会で語るように自分たちでさえ明治以降の開拓で土地を与えられた余所者に過ぎないという。彼らもまた自然を破壊してきたし、自分たちの都合のいいように山を住みやすいものに変えてきたと。区長も言うように、この段階では開発をめぐる敵も味方もおらず、自然に対する善も悪も存在せず、それぞれがそれぞれの事情を持っているに過ぎないのだ。
ある事象が観測される点から、また別の観点が提示されることで、描かれたもの自体の意味が変容したり溶解したり、意味自体を蒙昧にさせていくことは濱口竜介のお家芸だ。「親密さ」「Passion」「ハッピーアワー」「ドライブ・マイ・カー」。
濱口竜介ほど、誰もが自らの認識という檻に囚われていることに自覚的な作家もいないのかもしれないが、濱口の描く人物たちは自らがその檻に閉じ込められていることを理解せず、意識的に、あるいは無意識に他者との和解や親交、接合と融和を望んでしまう。近づき、触れ合うほどに理解されるのは、互いの違いと距離ばかりだというのに。その絶妙なすれ違いこそが、いつか決定的な訣別になるのだろうか。
そう、一つ言えるのならば、近づきすぎてはいけない、ということだけなのかもしれない。人と人も、人と獣も、獣と自然も、自然と人も。
互いが互いの恩恵に預かりながら、その境界が曖昧になったとき、きっと決定的な隔絶はそこに生まれ得る。
それは可能性であり絶対ではない。偶然でなく必然なのだが、数限りない可能性の中から予想だにせずこぼれ落ちる結果なのだ。
例えばキャンプ場の下水浄化装置はフル稼働しなければ環境に影響はないという。影響したとしても軽微だという。それも可能性。上流から下流へと流れたものは堆積していつか破裂するという。それも可能性。グランピング場予定地はシカたちの通り道だという。それは事実。しかし3メートルもの網を張ったとしたら東京から客は来ないかもしれないという。それも可能性だし、一方で山のシカは人間を恐れているから遠回りしたり通りすぎるかもしれないという。それもまた可能性だ。
統計やネットで調べた情報で推測できることもあれば、実際に暮らす人たちの意見を聞くことで見えてくることもある。だから当事者になる彼らはお互いに歩み寄ろうとするはずなのだ。少なくとも悪意ある他人たちではなく、善良なる一人間たちなのであるから。
まさにかけ違えるということはこういうことなのだろう。初めから実行ありきのコンサルや社長はともかく、住民と直に話したマネージャーたちはその納得できない理由も感情も理解し同情し妥協点を探ろうとする。誰だって同じ人間なのだから。ゆえに彼らがわかり合うことなどない。
巧みに構成された会話劇の一言一言のちょっとしたずれが、滑稽なおかしみを誘うほど悲劇的に少しだけ食い違う。マネージャーたちが行って来いで長野までもう一度行かされる道中の彼らの会話からその流れは圧巻だ。噛み合ってるようで噛み合ってない。わかり合ってるようでわかり合っていない。その皮肉とペーソス。
女の結婚への諦めと男の結婚への憧れ。嫌な言葉づかい嫌なタバコ、拒否されなければ冗談で済ませられると思ってるような軽さ。高い酒でも持っていけばコミュニケーションが取れると思う浅はかさとそもそも受けとりもしない頑なさ。都会暮らしが思い描く田舎暮らしと田舎暮らしが実際に暮らす田舎。「体が温まりました」「それうどんのことじゃないですよね」。この返しはあまりに見事で苦笑してしまう。どれも睦まじげであり、仲を取り持とうとし、近づこうとする姿勢だ。それゆえに慇懃無礼である。まるで未開の地を見つけた文明人気取りの野蛮人たちのような傲慢さと想像力の欠如が、相手をわかってあげようとする善良な人間性でオブラートされていることが見て取れるだろう。
違うもの同士が近づこうとするとき、むしろその違いは決定的になる。会話が織り成す不協和音。時折現れては消えていくシカたち。死んだシカの骨。遠くで聞こえる銃声。あまり原っぱに行きすぎてはいけないと少女に忠告する区長。野生のシカは人を避けるという経験。シカを見に度々森へ近づく少女。人に慣れたシカは人間を襲うという与太話。逃げられない手負いのシカは人を襲うかもしれないという予想。そして保育所のお迎えをよく忘れてしまう暇人じゃない何でも屋の父親。
積み重ねられた極小のサスペンスは最悪の結末への導線だ。あらゆる可能性が散りばめられながら、それそのものは何一つとして引き金にはなりえない複合性の悲劇。
この穏やかな106分間の末に人の命が失なわれるという、おそらく結果からは過程を辿ることなど到底できない突発的な終焉は、きっと誰もが持つ自らの認識と誤解、ゆえに持ってしまう他人への理解と共感、人が人であるための和解への期待、そして無知ゆえの想像力の欠落がもたらした、始まった瞬間に終わりを迎える死のドミノなのだ。
人々はわかり合うことのできぬまま互いの生活と自然に溶け込み、やがていつか来る噴火までふつふつと煮えたぎるマグマのように生き続けるだけなのかもしれない。
以下は想像に過ぎないけれど、銃で撃たれて逃げられない手負いのシカは後ろにいる小ジカを庇って、突然現れた人間である散歩していただけの花と対峙していたのだろう。
一瞬映るシカに空いた銃創。鋭利に雄々しく尖った立派な角。そこへさらにもう二人の人間が加わる。シカに慣れていないマネージャーの高橋は花を助けようと駆け寄る。もしかしたらこのとき、驚いたシカは抵抗して花をその自慢の角で突き飛ばしたのかもしれない。それは描写がないからわからない。しかし直後、シカをよく知る木こりの巧は思わず彼を押さえつけて地面へ羽交い締めにしてしまう。泡を吹いて気絶したかのような高橋をあとにして花に近づく巧の前に横たわる彼女の鼻からは血が流れている。花を背負い抱えて森へと消えて行く巧。そんな彼を追いかけていこうとふらつきながら数歩だけ歩いてそのまま倒れ込む高橋。そしてキャメラは石橋英子の不協和音とともにまた夜の松林をさまよう。巧の?粗い息づかいだけを残して。
決定的な描写や説明的な映像は挟まれることなく描かれる、シカによる事故と人間による事故、あるいは偶然の殺人。撮影でシカを操ることも、シカに少女を突き飛ばさせることも、シカとともに演者たちを撮影することも、どれもに撮影的なハードルの高さを感じるとともに、撮る必要もなかったとも考えられる。殺したとも死んだともつかないその描写こそは、ここまでこの作品を見てきたものの受け取り方に委ねられているのだから。
上記のような捉え方と描写のピックアップをしていけば、それは娘をシカから守ろうとした父親の咄嗟の判断ゆえの事故と結果としての殺人であるかもしれないし、もしかしたら見る人が見れば巧は初めから自分たちの生活を奪おうとする高橋たちのような人間への憎しみを持っていたとも受け取れるのかもしれない。全てはそれまでの描写を見る人がどのように捉えてきたかによるみたいだ。
きっと濱口竜介にとって映画は人の心を映し出すものなのではなく、人の心の揺らぎや変化を観るものに想像させるためのものであるのだろう。ある人々の暮らしや生活、そこに住む人たちの姿や命のかたちを想像できないものたちこそが、その人たちの人間的な営みを、人間性、社会と生活を奪って行くものたちであるからだ。映画はその橋渡しにすぎない。
唐突な終わりにこそ疑問を持ちながらその意味と波紋を想像する必要がある。この映画はここで終わるのではない。我々が映画館を出て現実を生きるときようやくまた始まるのだ。

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