街道の町・埼玉①
4000字くらいです。タイトル画像にある雑埼玉地図のアニメ話は一切出ないので期待しないでください。
僕は埼玉の郷土資料館をいくつか巡っている。
東京からのベッドタウンとして、都内への通勤通学のための人々が多く住む埼玉。おそらく、かつても埼玉は江戸とを結ぶ街道として、さらに昔は鎌倉街道という鎌倉幕府とも結ばれ武士や商人らの往来がさかんだったと思われる。
そんな埼玉の、東武の一端へ、今回皆様をご案内したいと思います。
ようこそ、我が故郷の埼玉へ!埼玉の歴史散歩を楽しみましょう!
日本橋から日光街道へ。
日光街道は、江戸幕府が整備した主要幹線道路である「五街道」の1つ。特に宇都宮にて日光と奥州へと分岐するため、「北の大通り」でもある。
そのためか、日本橋(今の国道1号の起点であり「東京まで〇km」という道路標識は日本橋までの距離を示す)から出発して最初の宿場町である千住宿は、幕末までに人口は1万人以上の江戸の最大の宿場町となった。
日本橋を出て、北は両国を目指す。下総と武蔵の2つの国を結ぶ両国橋を右手に、さらに北は浅草。ここが大正末期の関東大震災までは江戸・東京最大の繁華街である。諸国の年貢米などが収められた蔵屋敷や商人たちが集中し、多くの芝居小屋が立ち並び。近くには遊郭がある吉原もある。
↑隅田川を経て吉原へのご案内はこちら。
さて、埼玉をテーマにしたこの記事に、千住や浅草を強調している理由は、日光街道沿いの人々の繁栄と関係していると思うからだ。
この街道沿いの人々の生活は、筆者の感覚なのだが、西武の山地と比べては豊かなような気がする。その理由の1つに、この街道の人と物資の往来がとてもさかんであり、商売が繁盛していたこと。
もう1つに、この辺りは多くの川が集まる低地であり、稲作が特にさかんだったことにもあると思う。
埼玉の西は関東山地、その東に北武蔵野台地・入間台地・武蔵野台地がならんでいる。さらに東に荒川沿いの「荒川低地」(東武東上線沿い)があったと思いきや、大宮台地に挟まれる。
この大宮台地のさらに東、荒川に合流する中川に広がる中川低地。
さらには綾瀬川、元荒川、古利根川などが流れ込む。
昔は、米は販売用のぜいたく品であり、大事な祝い事ぐらいでしか食べられず、安価な麦が主流であり、米が多くとれるところでさえ麦を混ぜて食べていた。豊かな場所ほど、麦飯に米の割合が多めだったようだ。
筆者は西武から埼玉の郷土資料館を散策している。感覚的にではあるが、この日光街道沿い、東武は暮らしが豊かなように思える。
それが、この東京のかつての繁華街や下町を結んでいたのが日光街道だと思う。
千住へ。
千住宿へ入る。五街道の最初の宿場町・江戸四宿(ほか東海道の品川宿・中山道の板橋宿・甲州街道の内藤新宿)では最も人口が多い理由は先ほど述べたものもあるが、さらに栄えたのが「やっちゃ場」という青果市場があったことも大きい。
この近辺は、江戸野菜、大消費地の江戸へ売るための近郊農業が発達しているが、これらの野菜が幹線道路の江戸の入り口であり人通り激しいこの千住に集うのだ。
さて、明治以降になると、下町には町工事が広がり。さらなる繁栄を迎えます。
以上、足立区立郷土博物館でしたが、実際は住居の展示もあり、入館料200円以上の価値があり、野菜の展示には感動しました!
千住駅前にも、千住宿の名残が。
ここまで、駅前から右手の方で割と栄えたところ。
左手はやや閑散としてるが、この奥の約1キロくらい先に、やっちゃ場のあとが。
千住宿を抜けると、荒川がそびえます。
荒川を越えると、埼玉!
は西の話。足立区が続きます。
てか、北千住のすぐ南の隅田川のむこうは荒川区(南千住も実は荒川区)。
ちなみに隅田川は、荒川が赤羽の岩渕水門から分流し、台東区浅草と墨田区スカイツリーを分けます。
なのでまだ足立区。毛長川(伊勢崎線の竹ノ塚と谷塚の間)を越えると、ついに埼玉県草加市です。
さて、結局、テーマの埼玉まで行かなかった「埼玉街道の歴史散歩」。
これも、次の草加と春日部を際立たせる前触れととらえてください。
ちなみに、実は筆者は日本橋から日光街道を通ってません。
なので、申し訳ないのですが、次回はいきなり草加です。
ただ、草加から越谷までは楽しい道(千本松原)なので歩いた!
まあ、昔の人は一日に40キロくらい歩く健脚ぶりですが。
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