私の読書日記:2021/09/15
最近(注力して)読んでいる本
夏目漱石『夢十夜』
ドストエフスキー『悪霊』
三島由紀夫『豊饒の海』
マルコ福音書・マタイ福音書に記されているガダラの豚の伝承が、上記の3作品の源泉になっている。と、私はそのように思っている。
まず『悪霊』については明らかだろう。本小説の冒頭で、マタイ福音書の引用がある。悪霊の憑いた豚の群れが、自ずから崖へと落ちていく。そんな話が引用されているはずだ。
次に『夢十夜』。この作品ではガダラの豚をモチーフとした描写がある。「第十夜」の一部を引用してみたい。
この時庄太郎はふと気がついて、向うを見ると、遥かの青草原の尽きる辺りから幾万匹か数え切れぬ豚が、群れをなして一直線に、この絶壁の上に立っている庄太郎を目懸けて鼻を鳴らしてくる。庄太郎は心から恐縮した。けれども仕方がないから、近寄ってくる豚の鼻頭を、一つ一つ丁寧に檳榔樹の洋杖で打っていた。不思議な事に洋杖が鼻へ触りさえすれば豚はころりと谷の底へ落ちて行く。覗いて見ると底の見えない絶壁を、逆さになった豚が行列して落ちて行く。
――夏目漱石『夢十夜』第十夜 青空文庫
やはり穴へと落ちる豚の群が描写されている。
『豊饒の海』シリーズにもそのような絵画的構図で、ガダラの豚を描写して見せたシーンがある。(正確には、豚の群が崖から落ちる直前のシーンと言うべきか。)
そそり立つ荒地野菊が空を制している崖っぷちに、自動車の捨場があって、青と黒と黄の三台が不安定に積み重ねられ、ボディの塗装をどぎつく日に灼かれているのが、瓦礫の間に見えた。
――三島由紀夫『天人五衰』新潮文庫 p.322
崖っぷちに積み重ねられた廃車。落下しても気にも留めないような、悪意を感じる捨て方である。悪霊の憑いた廃車が崖から飛び降りようとも、誰もがそれを黙殺し、日常は続いていく。この廃車の群れは大衆(あるいは人間の群れ)であるのかもしれない。悪霊の憑りついた大衆が奈落に落ちようとも、大衆は全く気にしない。そんな主張が秘められているように窺える。
ガダラの豚の伝承は、近現代のどの作家をも戦慄させうる拳銃である。誰もが自らの懐に忍ばせている。いつ暴発するかもわからない。近代以降の作家は、どうしてもその拳銃の存在を書かずにはいられなかったのだろう。私はそのように感じた。
むすびに
このような観点からゲーテ『ファウスト』も読んでいきたい。
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