虚無感が飢餓感に変わったら〜孤独に呑まれそうになったとき
「戦後日本社会の虚無」という表現は三島由紀夫がよく用いていた。『鏡子の家』の冒頭――「みんな欠伸をしていた。」――に代表されるような、物質的な過剰のもとに現れるけだるさや虚無感のことである。
村上春樹作品を評価する際にも「虚無感・喪失感」といった言い回しがよく用いられる。『ノルウェイの森』や最近では『女のいない男たち』において、「男性の虚無感がよく描かれている。」などといった評価がよくされていることだろう。
時代が進んでいくと、その虚無感が「自覚されないもの」、あるいは「押し殺すもの」になってしまったように思う。代表例として村田沙耶香『コンビニ人間』、遠野遥『破局』、宇佐見りん『推し、燃ゆ』を挙げるべきだろうか。
『コンビニ人間』の主人公は、ある種自身が抱えている虚無感に対して無自覚的である。また、『破局』の主人公は虚無感や欠落感(周囲との合わなさ)をなかば自覚しつつも、世間の常識をルールとして覚えて適応することで乗り切ろうとしていた。『推し、燃ゆ』についても、主人公は推しを失ったことで、欠落感や喪失感に苛まれるようになる。しかしそれを表に出すことはできない環境にあった。
ここまで来ると生活自体が破綻してしまうようになり、もはや「虚無感・喪失感・欠落感」と言い表すには、深刻すぎるものになってしまった。虚無感を通り越して飢餓感となってしまったのだ。その飢餓感が深刻な社会不安を生んでいるように思う。では、これらの虚無感や飢餓感の源泉は何であろうか?
虚無感と飢餓感の源泉
このような虚無感や飢餓感の源泉には、やはり孤独があるように思う。これは何も決して人間関係を持たない人だけの問題ではない。世間に順応できないことで生じる孤独が人にそういった感情を抱かせてしまうのだ。
孤独が精神的な虚無感を生み出しているうちは、まだ悪くないように思う。本人にとっては苦しい状態ではあるものの、誰かに相談してみたり、本を読んだりすれば解決できる領域であるように感じるからだ。
しかし、孤独が精神的な飢餓感を生み出すようになってしまったら、危機的であると思う。すぐにでも適切な医療機関に相談するべきであるし、頼れるものは何でも頼るべきである。また、この状態になってしまうと本を読めるのかすらわからない。自覚できるかもわからないが、とにかく精神的な飢餓感を感じるようになったら、他人に相談することが望ましいと感じる。
そしてネットでネガティブな情報を見ないことも重要であると思う。スマホがなくとも、ネットがなくとも、人類は生活できたはずである。見ていることで精神的に摩耗してしまうなら、見る必要も義務もないのだ。
しかし、何が孤独を癒やしてくれるのか? その答えは本当のところわからない。人によっても異なるだろう。だが探すしかないのだ。
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