反転した「生」と「死」の世界 追記HANABI Ⅱ
死は他者化した自我から見れば
哀しみのセカイ
恐れ、慄き、忌むべきもとし遠ざける
死は魂、ほんとうの自分から見れば
喜びのセカイ
生と死は別れておらず、
それを表す言葉たちも意味をなさず、
生まれてきて喜び
死に還って喜ぶ
かつて伝統様式を纏った民族儀式において
生贄というものがあった。
人を自然を象徴する神等に捧げるというものだ。
唯物的な価値観で見ればなんてことをしているんだとなるだろう。
その反応は現代を生きる殆どの人にとって正しい反応になるだろう。
では、各民族において何故このようなことが正統化されていたのか。
まずは死というものの価値観が全く違う。
死というものは存在の終わりではなく
むしろ神の一部へと還って逝くものであった。
彼らはあちら側から来ているそして還るということを忘れないために幻覚作用のあるキノコやハーブのイニシエーションを使ってあちらとこちらの世界の繋がりを感じていた。
よってぼくら現代人の感覚と彼らの感覚は全く違ったものであったろうし、彼らが見ていた世界は今ぼくらが見ている世界とは全く違ったものであったと言っていいだろう。
世界中で行われていた生贄儀式↓
エグいので閲覧注意!
死後の世界は生の世界より彩り豊かな世界が広がっているというのは、色々な知識と経験でぼくにもわかるようになってきたが(ぼくは臨死体験などをしたわけではない)、
この生贄儀式が正しい行いだと言えるかというと
ぼくには言えない。
死ぬということが良い意味を持ち
喜びをもって迎え入れる事だとしても
生における意味が軽くなり
神の意志を取り違えていると思うからだ。
霊性のみが発達した世界では自我が発達しておらず自他の境界がなく、自然、物、神との境界も薄かったと考えられる。
そこへ物質、自我の成長へと働きかける宇宙的な力が加わると古代人々は神が怒っていると感じたことだろう。世界が変わるということに対する恐怖心、畏怖、長老やシャーマン達はその力を読み違え現代人からすると残酷極まりない生贄儀式が行われるようになったのではないか。
霊性のみが発展してしまうと
宗教心や精神が間違った方向に力を帯びてしまう。その集合意識が暴走してしまう。
だから、科学や自我、物質文明の登場は必然であったのだ。
しかし、霊性を忘れ去り物質文明と自我の発展しすぎた現代において生、生命というものも残念ながらものとして扱われている。
今度は逆の事が起きているのだ。
↑ある意味生贄よりとんでもない規模の残酷さである。
ヒロシマ、ナガサキ。
それだけでなくAI、ドローンによるコンピューターゲームのような戦争。
遺伝子組換えゲノム編集による生命の伴わない食事。
小さな身の回りの生活から地球規模の大きな政治まで生も死も軽んじられる世界になってしまった。物化した他者の鏡像である自我意識の集合意識体が暴走しているのが現代である。
価値観の反転が今必要とされている
生の世界も死の世界も繋がりを持ち
ぼくたちは生まれてきて
魂(=素粒子)に生を刻み込み
死後の世界へと還って逝く。
その記憶はあちらの世界に永遠に残るのだ。
個々の生は尊重されるべきものであり
個々の死も尊重されるべきものであるのだ。
ぼくたち生者は常に生と死の間に立ち
死にながら生きるものとして
この世界を堪能していくのだ。
ご一読ありがとうございました!
本日の紹介コーナー🌟🌙☀
星読み🌟ユリシスさん
とてもいい記事☀🌙↓
↓全月星座載ってます🌙🌟
🌟🌙🌟🌙🌟🌙🌟🌙🌟🌟🌙🌟🌙🌟🌙🌟🌙🌟
エレスさんの「生きる」
2月からnoteに旦那さんの病状(ワクチン後遺症だと思う)を記していたエレスさん。
8月22日旦那さんはあちらに還られました。
ご冥福をお祈り申し上げます🙏
kayoさんの「生と死」
kayoさんも最近妹さんを亡くされた・・・🙏
ご冥福お祈り申し上げます🙏
生きっどぉぉおお!!!
追記🎇
わが町のハンセン病療養施設敬愛園さんの花火を見てきました。
月と星と花火と夜風が氣持ちの良い夜でした。
生は永遠の中の一瞬の輝きなのかもしれません🙏
以上です!
ナマステ✨🙏