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【ショートショート】不自由が丘
京子は自由が丘駅の南口にあるティーショップのサロンでお茶を飲みながら、6歳になる息子の金光の帰りを待っていた。この近所にあるバイオリン教室に通っている金光は、京子が付き添っていると集中できないので、送り届けたあとはこの店で時間を潰しているのである。本当はそばで見ていたいところを、先生からの頼みで離れていなければならなくなったので、終わったら先生が店まで金光を連れてきてくれるのだ。
そろそろ来るかしらと思って窓の外を見ていると、ちょうど金光と先生が姿をあらわし、こちらに手を振っている。「ちょっと待ってて」と身振りでしめし、会計を済ませて外に出ると、「ママー!」と金光が抱きついてきた。
「先生、ありがとうございました」
「いえいえ、金光くん、今日もとても上手でしたよ」
「あら、そうでしたか。金光、よかったね」
「うん!」
先生と分かれて、店のすぐ隣にある改札に入ろうとした瞬間、ゴゴゴという地響きとともにぐおんと地面が盛り上がり、京子はとっさにしゃがんで金光を抱きしめた。
「金光ちゃん!」
「ママ、怖いよ!」
周りを見れば、人も建物も何もかもが土色となり、まるで粘土がとろけているように形がなくなってゆく。北口の向こうの丘を埋め尽くすビル群も見事にその姿を消した。京子と金光をのぞく全てが一瞬にして土と化してしまった。呆然と立ち尽くす2人の後ろで、
「やあ」
と声がしたので振り返ると、野鳥観察でもしていたかのような身なりの70代くらいの男性が立っている。
「とうとうこの時が来てしまいましたですねえ」
男は感慨深げに周囲を見渡しながら言った。
「これは一体……何が起こったのでしょうか?」
京子が恐るおそる尋ねると、男は2人に近づいてきて話し始めた。
「ここからひとつ南側の通りですね、あすこの下には九品仏川が流れているんですねえ。1974年でしたか、今から48年前に暗渠になってしまったんですね……反対意見もあるにはあったのですが、時代の流れには逆らえなかったんですねえ。それからずうっと"不自由じゃ、不自由じゃ、苦しいよう、苦しいよう"と、龍神様が言い続けていたのですがね、誰にも聞き入れてもらえず、龍神様の堪忍袋の緒が切れて、ついにこの日を迎えたわけなんですねえ……いやあ、50年はもたなかったですねえ……これでやっと、また息をすることができますですよ」
しゃべり終えた男はやはり粘土になり地面に溶け込んでいった。その直後、同じ場所から水がぽこぽこと湧いてきて、東に向かって流れ始めた。
気がつくと京子は今にも擦り切れそうなもんぺをはいて、金光を背負い、交互に繰り出される自分の足を見ながら小川のほとりを歩いていた。
「ママー! お花が咲いてるよ!」
金光の言葉に顔を上げると、川の両岸には一面のコスモス畑が広がっていた。北口の丘の方にもずっと続いている。そうだ、京子の祖母が、戦後の焼け野原にまず咲いたのはコスモスだったと話していたことを思い出した。「失われた命が返り咲いたようだった」と、夫と兄を戦争で亡くした祖母は庭のコスモスを見ながら言うのだった。
(了)
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