ときどき考えること ⑤
このところ、中学受験をして、中高一貫の学校に入学したけれど、中学1年生または2年生の終わりまでに英語の成績が良くなくて、と、寺子屋に入塾してくる生徒の通っていた幼稚園、保育園に偏りがあるように思う。
早期教育ー必要に応じたものではないインターナショナルスクールを含む英語や、読み書きだけではなく、暗記などの勉強をさせていることーで有名な幼稚園、保育園に通っていた生徒が圧倒的に多いー。
その生徒たちの様子を見ていると
褒められつづけないとやる気を急速に失っていく
褒めてほしいという主張が激しい
ときどき、的外れな、少し人とは違ったことを言い出したり、し出したりする
そんな傾向がある。
それは、幼い頃の言われたことさえしていれば褒められるという成功体験が、彼らを勘違いさせるだけではなく、与えられるものをしていれば良いという錯覚に陥らせているのではないかー
と、私は仮説を立てた。
中学校に入るまでは、彼ら、彼女らは「優秀」だと言われる。そして、本人も周囲の大人たちもそう思い込んでいる。
でも、中学入試を経て入る学校にはそんな生徒に加えて、本当にしっかりと「学習」の土台を固めて本物の実力を持って入ってくる生徒たちがいる。
どんどんと自分たちの本当の実力が露わになっていくー
英才教育と早期教育は違う。
英才教育は本人の才能を伸ばすべく行われるもので、早期教育は先取りの教育だ。
先取りで、余裕を作り、余分に学べることを期待するけれど、
早い時期に、自分が人よりできると勘違いして、先取りの蓄えを地道に増やすことよりも蓄えを使っていく形で中学受験を乗り切り、気が付いたらその蓄えが無くなり、耕すことを忘れていた土台が崩れていく
それが、過度に褒められた成功体験の弊害ではないかと、私は考えている。
そして、崩れた土台が見え始めると、周囲の大人がまず焦りだす・・・ときには怒り出す。
すると、本人たちには「言われたことをしてるのに」、「誰もそんなこと言ってくれなかった」と、不満だけが残っていくー。
そんな彼らは、だんだんとテストの度に
「時間が足らなかった」
「問題が難しすぎた」
「(私の周りの)みんなできなかったと言っていた」
と言い始める。加えて
「テスト範囲以外から出ていた」
「こんなん出るって聞いていない」
「あの先生はいじわるだ」
なんてことまで言い出すこともある。
自分ではなく人のせいだという発想になる。
私は、かっこ悪いなぁ~と思いつつ
「でも、条件は皆同じでしょう。できた人はいなかったの?」
なんて、少し意地悪なことを聞いてみる。
先週、結果は伴っていないけれど
自分たちが勉強していることを主張する高校生たちに
勉強は机に向かった時間で測るものではないよ。
時間をかけたからって「勉強した」とは限らない。
君らの言う勉強時間は、ただ「机に向かった時間」でしょう。
と、言うと、うなだれていた。
小学生の頃優秀だったのに、と言わんばかりに
中学校、高校と文句ばかり言っている生徒たちー
勉強は自らでしっかりと考えて、きちんと身に着けて初めて「した」というのだ。
時間なんて短くてもできる。
何時間したって身につかなければ勉強をしたとは言わないー
何時間も勉強したなんて、自慢にはならない。
逆にかっこ悪いと私は思う。
大切なのは、自分で考えること
自分に合った学び方を自分で考え、学ぶことー
人の成功例やほかの人の勉強法を知り試してみることも大切だけれど
それがそのまま自分にも合うとは限らない。
そして、覚えた知識は使えてナンボだ。覚えることは、基本的に若ければ若いほどほとんどの人にできることだ。
幼稚園児が、覚えるように言われて平家物語や枕草子を空で言えることよりも、ポケットモンスターのキャラクターとそれぞれの能力を頼んでもいないのに覚えて語り続けられる方が、私はよっぽど大切だと思う。