見出し画像

『こころ』(著:夏目漱石)〜百年の時を超えて、永遠の引きこもりの先生の「こころ」について

※ネタバレします。


【内容】
引き篭もりの「先生」と大学生の「私」との交流と、その後、「私」に送った「先生」が自殺に至る経緯をまとめた長い遺書で終わる小説。


【感想】
学生時代から何度か挑戦しつつも挫折を繰り返し、干支が二巡以上する期間を経て、ようやく『こころ』を読み切りました。
調べてみると、『こころ』は2016年時点で新潮文庫版が718万部を発行し、日本の文庫で最も売れているとのこと。文庫と全集を合わせると、1994年にはすでに2000万部を突破していたそうです。

暗く、単調で、スピード感も希望もない…それでも、読み進めるうちに心地よさを感じる瞬間があり、その独特のリズムや当時としては斬新な文体が、多くの読者に受け入れられたのだろうと考えました。漱石の文体には不思議と真似したくなるような吸引力があり、読み手の言葉遣いに影響を与える独特の力があると感じました。
『こころ』が新聞連載されたのは1914年、100年以上も前の作品ですが、現代の感覚で読んでも通じる新しさがあるのは、さすが漱石の力量なのだと感じました。漱石風の文体を取り入れている現代作家も見掛けますが、漱石のこの文体でしか書けない何かがあるからなのだと感じたりしました。
今の感覚で見ると、「先生」という存在がやや痛々しく感じられる部分もあります。社会とも関わらず親の遺産で暮らし、妻やお手伝いさんにまで「先生」と呼ばせる中年男性の姿には、少し距離を感じてしまいます。現代の引きこもり中年男性を想像すると、どこかコントのようにも思えるシチュエーションだと感じたりしました。
「先生」の引きこもりの理由を物語の中心に据える構成も、現代の感覚ではやや弱く感じられました。また、小説の終盤に延々と続く遺書には、読み手の辛抱を試すような印象がありました。(それを面白いと評価している文章も見かけたことがありますが。)こうした感想を抱きながら漱石の没年を調べてみると、気づけば自分が彼の亡くなった年齢になっていることに気付いたりしました。そこら辺が学生の頃に読んだ時とは違って、皮膚感覚でわかるような感覚にもなっていて、それだけに腹落ちする部分と、見たくもないものを見させられている感覚が同居するような感覚になっているのだとも思いました。
この文章は、何度か書き直しているのですが、なにかしっくりこなくて、書き直す度に自分が感じたり、考えていたりすることが、少しずつ掘り起こされるような感覚があります。
そういった意味で、近代文学の古典たらしめている作品なのかもしれないと思ったりしました。
もしかすると、自分の年齢的にも、良い時期に読了したのかもと思ったりしました。

https://www.amazon.co.jp/dp/4101010137/ref=cm_sw_r_as_gl_api_gl_i_7E7KTSKC7ESGPBC69TMJ?linkCode=ml2&tag=tenten2021-22

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集