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【短歌】マフラーの色変えなきゃ、と戻る部屋ピアニー(牡丹色)?イエロー?空は銀色
先日から太宰沼にハマってる。『人間失格』、『ヴィヨンの妻』を読了し、現在は『斜陽』を読書中。これも、一度読んだ記憶があるけれどもちろん霧の中。
今日一日は、かず子の独り言に付き合おうと決めた。『斜陽』は、終戦直後に没落した華族の滅びの様を描いた物語。
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今でも世界で起こり続ける戦争について、いつも考えてるわけではないけれど、ニュースを見るたびに、決して気持ちが明るくなることはない。ここのところ、トランプ、プーチン、ゼレンスキーの動きなどがそれぞれ報道されている。トランプの手法などは、さながら商談の駆け引きのようだ、と言う人もあるけれど、それぞれ自国が富み、生き延びるために人間が誰でも持つ欲望に突き動かされて虚実入り乱れた情報戦が展開されてるのだろう。相手がどんなシグナルを送っているか?読み違えまいと沢山のエリート達が今日も巨大な壁と格闘してるのだろうと想像する。自分の掲げた正義に導かれて…。
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日本でもかつて起こった戦争、これから起こるかもしれない戦争。自分が暮らしているこの地でも無残な事があったろう。機が揃えばそこにいただろうと思うが、遠い国でも、近くの国のでも、いつの時代に生きても、きっと自分は、その時代の空気に染まる他なかったのだろうと後ろ暗い無力感に襲われる。その無力感こそが、デカダンスに至る源なのかもしれないと思う。
かず子も、かず子の母も時代に流されて生きた人たち。華族であろうと庶民であろうと変わらない。人間の欲望のエネルギーが巨大な渦を作って皆を平等に飲み込んでいく。
ある意味無垢でもある人間像『かず子』の気づきが、小さな希望の灯りを点す事がある。そう感じたのが次の一節。
編んでいるうちに、私は、この淡い牡丹色の毛糸と、灰色の雨空と、一つに溶け合って、なんとも言えないくらい柔かくてマイルドな色調を作り出している事に気がついた。私は知らなかったのだ。コスチウムは、空の色との調和を考えなければならぬものだという大事なことを知らなかったのだ。調和って、なんて美しくて素晴しい事なんだろうと、いささか驚き、呆然ぼうぜんとした形だった。
その手前の件では、
戦争中の、たのしい記憶は、たったそれ一つきり。思えば、戦争なんて、つまらないものだった。
昨年は、何も無かった。
一昨年は、何も無かった。
その前のとしも、何も無かった。
そんな面白い詩が、終戦直後の或ある新聞に載っていたが、本当に、いま思い出してみても、さまざまの事があったような気がしながら、やはり、何も無かったと同じ様な気もする。私は、戦争の追憶は語るのも、聞くのも、いやだ。人がたくさん死んだのに、それでも陳腐で退屈だ。
…なんてことを言う。戦時中の人が聞いたらほぼすべての人が怒りの声をあげそうな独白。感じたことをそのまま呟くかず子に染まらないものの純粋を思う。誰もが平和に安穏に暮らしたいと思ってるのだろうが、ひとたび戦禍に巻き込まれれば勇敢なことを口にせざるを得なくなることに厭世的な気分になる。
昨年は、何も無かった。
一昨年は、何も無かった。
その前のとしも、何も無かった。
この三行詩には、戦争の哀しみが含まれているように思ったけれど、かず子はそう読まない。その巻き込まれない感覚にも光を感じた。
現代を生きるかず子が詠んでくれたらと思う。
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