本雑綱目 54 理想 1983年9月号(特集:東洋の身体論)
今回は理想 1983年9月号、特集:東洋の身体論です。
雑誌はNDC分類では051一択。
古雑誌なので書影は見つかりませんでした。自分のUPしろよっていう気はするけれど、写心がない。
これは乱数メーカーを用いて手元にある約5000冊の本から1冊を選んで読んでみる、ついでに小説に使えるかとか考えてみようという雑な企画です。
★図書分類順索引
1.読前印象
この雑誌はこの1冊しか持ってないので、どういう系統の本かはよくわからないものの、読前といいつつ表紙の目次は見えているのでとりあえずそれを書き出してみる。
連載を除いて、『東洋の身体論を巡る諸問題』、『インド思想における身体論』、『初期仏教の身体感』、『中国伝統医学の身体感』、『神仙思想の身体感』、『タットワの旅』、『タントラ的宇宙氏と身体』、『日本古武道における身体論』、『サイバネティクスと心身医学』、『意識の本質的変容における身体の役割について』、『哲学の逆輸出(?)時代は来るか?』です。
2.目次と前書きチェック
僕の興味関心は『東洋の身体論を巡る諸問題』、『中国伝統医学の身体感』、『神仙思想の身体感』、『日本古武道における身体論』、『サイバネティクスと心身医学』あたりなのだが『中国伝統医学の身体感』、『神仙思想の身体感』、『サイバネティクスと心身医学』を読んでみよう。そういえばデカルトが下垂体がどうのと悩んでいたが、西洋は西洋で気になるな。
神仙思想って結局その形成過程で有象無象が色々混ざりきってるんだけど、天仙はそのまま昇天するんだが地仙は体を脱いで、尸解仙は一回死んでから仙人になる、くらいの知識しかないな。他のはどのあたりに焦点をおいてるのかわからない。
3.中身
『中国伝統医学の身体感』について。
主に内径医学について。
全身を循環する気、のうちの血気は名の通り『血』と『気』の複合体で、体内に摂取した飲食物が消化された精気が和調変化して赤くなったものが血であり、本来一体であり陰陽の関係に立つ。人体の生理は飲食物から得る『営(栄養)』と『衛(防疫)』によってもたらされる。機序は不明なもののツボや鍼灸における反応によって経路が発見され、それが臓腑と結びついて体系化された。
なんとなく、体系化は後付なんだろうなっていう気はする。
そして呪術から医術に変転する際、体内の気の鬱滞や逆調が生じることで疾病が発生するとした。その際患者自身の行為(暴飲暴食等)によるものを内因、自然の気(暑さ、寒さ等)によるものを外因とする。
臓腑を独立した機関ではなく経路として身体全体を組織的に捉えるという点はとても興味深い。中医学と西洋医学の違いは、中医学は肉体という結合した関係性を前提として脈診や望診等で全身の様子を感得し、西洋医学では個別の臓器とその器官の働きに注力すると考えれば頭の中ですっきりする。
これまで中医学ってよくわからなかったんだけどさ、なんとなく腑に落ちてきた。中国の独特の考えとして最初に陰陽、というか表裏一体の2つに物事をわけ、様々な経験則を特定の数字に分類することを念頭に置いて止揚するんじゃないか。中医学に限るわけではなく、一つの物事を全体の枠組みを保ったまま特定の数に分類することが文化として重要な気はする。
『神仙思想の身体感』について。
養生や養親の関係で荘子と神仙家の呼吸法などを紹介しているが、少し用語がわかりにくい気がする。荘子というのは老荘の荘で、老子とともにその主張がアクロバティック展開した結果、後の道教(いわゆる神仙思想)に結びつくわけだが、老荘と道教の基本理念には大きな隔たりがあって、そもそも老荘は無為自然(老と荘で発想はわりと真逆)を旨とする一方、道教は仙人になって不老不死なハッピーライフを目指すという活動なので、常々老荘の理念は道教の理念目的と基本的に反するのではないかと思っている。老子が自分が道教の始祖になってると知ると怒り狂うんじゃないだろうか。
……なんで道教が老荘なのかちょっと謎が解けた。
荘子に『雲気に乗り飛龍を御して視界の外に遊ぶ』という表現がある。荘子では無我の境地で自身が自然と一体となっていることを表す表現だが、道教はこれを筋斗雲に乗ってウホーイに変換したのか……。荘子はスーパーマンになるのではなく、心を滅して自然そのものになることを目的にしているのに。
さてそれで神仙説はもともと技術として発展しつつ、始皇帝から漢代にとても流行った。そして道教における養生(俺は不老不死になる!)は長年の修行が必要である。そこで民間には呪符や祈祷といった形で信仰を集めた。
それで本稿は太平道の『太平経』と五斗米道の『老子思爾注』の不老養生の身体感について述べるが、養親で最初に行うことは、内観で神と関係を結び、神を体内に留めることだ。その為に体内にいる神に思考を集中する(瞑想)する。この瞑想ってのが神を留め置くために集中することだから、自らを滅して自然と一体化する荘子とはやはり考え方が真逆としか思えない。
言わんとすることはなんとなくはわかるのだが、今の常識に毒されていると、中医学よりさらにさらにピンとこない感じ。
『サイバネティクスと心身医学』について。
パブロフは心身症や神経症は誤った条件付けがなされた結果生じた症状であり、少しずつ脱条件を学習させることで治療を行う行動療法の体系を作った、のための子どもに対する実験が今見ると虐待だなって思うやつ。まあ、トラウマの理解の仕方。続いてフォークはトランス状態は心身をリラックスさせ、シュルツはこれを研究発展して自律訓練法を確立した。また、精神分析の分野でも自己分析や集団療法、或いは絵を描かせる等によって患者の気付きを軸とする精神療法が展開された。
とここまでは西洋医学マターだが、シュルツはインドでヨガの研究をして、自律訓練法に取り入れ、フリッツパールズは大徳寺で前の修行をしてゲシュタルト療法に組み入れているそうだ。このように現代の心身治療の方策には瞑想やヨガといった東洋的な着想が含まれている。ヨガはわからないけど禅は内省をするので言われてみれば共通点があり、目から鱗な気分。
西洋医学の個別的対処療法的な考え方と東洋医学の全体を一と見て関連性を前提に全体を向上する考え方を統合したものである。そこで自律訓練法とヨガで心身をコントロールし、バイオフィードバック法とゲシュタルト法により心身相関の気付きを得るとする。うん。これも言わんとしたいことはわかるんだが、これって統合して優位に相関関係が得られるものなのか、少々疑問に感じてきた。それぞれの結節点的なところをそれぞれ三段階ジャンプしてるような気はするけれど、これは論文ではなく雑誌なので概括的な記載なのは仕方がない。機序がどのように考えられているのかは気になるな。
サイバネティクスという語は生命と機械の統合を意味するのでバイオロイドとかネットの世界にダイブの話と思ったのに、よく考えたらこれ刊行が士郎正宗の漫画より更に6年早かった。それで僕のもともとの理解では、サイバネーション療法は症状緩和ではなくストレス除去を目的とする療法の記憶なのだが、現在と当時の心療内科の知見に変化があるかもしれないな、と少し思う。
全体的に、僕は興味深かった。他の人が興味深いかはわからない、いや、ない(異論は認める)。身体感といいつつ3つ読んだどの章も『身体感』かといわれると若干違和感がある。やっぱり武道を読むべきだったか。
小説に使えるかというと、使えないなぁ。基礎知識としても中医学は理論的な話だし、神仙もエアな話だし、サイバネは一療法(しかも多分古い)の内容なので。
4.結び
テーマとしては興味深い。この雑誌は哲学思想系の雑誌のようです。身体感というとやっぱり心と体の関連というイメージだったのだけど、そもそもこの観念事態が比較的最近生じたものなのだろうかと思い直す。心というか今イメージされる自由な心、というものは近代以降に発生した概念なのだ。例えば西洋中世なんかは概念としては神と体しかないんじゃないかと思う。そう考えると、神仙思想で言う体内に神を留めるというのはひょっとしたら説得的なのかもしれない(混乱)。それぞれの内容で身体に対置する概念が何かが気になるところ。
次回は石井良助著『江戸の刑罰』、です。
ではまた明日! 多分!
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