次に観る映画が人生最後の映画だとしたなら。私は『プレステージ』
『プレステージ』はクリストファー・ノーラン監督の映画作品だ。上映は2006年。
クリストファー・ノーラン監督と言えば『ダークナイト』が最も挙げられる作品かと思うが、二人の男の争いという形は、この『プレステージ』で既に出現している。
いや、ソレどころか『ダークナイト』がやはりコミック原作である以上、良くも悪くもドコか形而上学的な作品であるのに対し、『プレステージ』は二人の男の人生に焦点を絞った“実存”的な作品であると言える。
(以下、あらすじとネタバレが続きますが、わかりやすくするため少し内容を簡略化した部分もございます。ご了承ください)
あらすじ
物語は、一人の男=ボーデン(クリスチャン・ベール)が大きな劇場でマジックを見ているトコロから始まる。壇上でマジシャンの男=アンジャー(ヒュー・ジャックマン)が披露しているのは「瞬間移動」のマジックだ。
マジックに種も仕掛けもないコトを確認させるため、観客の数人を壇上へ上げるアンジャー。ボーデンは壇上に上がるコトに成功する。
マジックの装置(巨大なテスラコイルのよう)を確認するフリをしながら、舞台裏に入るボーデン。そのまま舞台の下に行くと、巨大な水槽がステージの真下に設置されていた。
テスラコイル(イメージ)
マジックが始まる。テスラコイルが大きな音を立て、稲光を放ち始める。
その真下へ向かうアンジャー。稲光が最大になった時、アンジャーの姿は消えていた。
実際には、アンジャーは稲光が最大になった一瞬間に、ステージの下の奈落に落ちていた。そう、水槽のある奈落に。
アンジャーが入ると、水槽にはカギがかかった。事態を把握できず呆然とするボーデン。現状を認識し水槽に斧を叩きつけた時には、アンジャーは絶命寸前だった。
そしてそのまま、アンジャーは溺死する。現場に居合わせたボーデンは第一容疑者として拘束され、長年の因縁を法廷で暴かれ死刑を宣告されるのだった。
牢獄に繋がれたボーデンに、コールドロウ卿という人物が交渉人を寄越す。
ボーデンもかつて「瞬間移動」のマジックを行っていたマジシャンであり、そのマジックの種を明かすのならばボーデンの一人娘を保護してやると、その交渉人はコールドロウ卿の意志を告げる。
ボーデンは娘の今後は安全で保護は必要ないと強がるが、交渉人は考える時間を与え、去り際にアンジャーの日記を置いていくのだった。
ネタバレ
ボーデンはアンジャーの日記を読み始める。日記には、二人の出会いからが書かれていた。
二人は若かりし頃、とある有名なマジシャンの下で修業をしていた。
そのマジシャンの最も人気のあったマジックが「水槽脱出」で、アンジャーの妻がその助手だった。
助手であるアンジャーの妻が手足を縛られた状態で水槽に入り、水槽には布が被せられる。数秒後にはアンジャーの妻は脱出している、というマジックだ。
アンジャーの妻を結ぶのは観客なのだが、その観客にはボーデンとアンジャーがなりすます。つまりサクラとしてマジックに参加するというワケだ。
ある日、ボーデンは提案する。
手の結びを変えてみよう。その方が観客にも説得力のある結び方ができる。今の結び方は何人かにはバレているかもしれない。
アンジャーの妻も自信ありげに賛成するが、アンジャーは反対する。その場は結局、現行通りに行うコトで決着がついたかのように見えた。
後日のマジックで、悲劇は起こる。
水槽から妻は脱出できず、溺死してしまうのだ。
葬儀にて、ボーデンに問うアンジャー。どう結んだ?
アンジャーは答える。覚えていない、と。
ボーデンは激昂するが、アンジャーはその場を去る。
その後、二人はマジシャンとして独立するが、お互いの足を引っ張り合う。
ボーデンは銃弾掴みのマジックを行うが、アンジャーは銃弾をすり替え、ボーデンの指を二本、吹き飛ばすコトに成功する。
片やアンジャーは鳥の瞬間移動のマジックを行っていたが、ボーデンの策略によって観客に怪我を負わせてしまう。
二人の争いは激化し、マジックのレベルも上がっていく。
遂にボーデンは「瞬間移動」のマジックを行う。アンジャーはそのマジックを見に行くが、驚嘆する。
確かにボーデンは瞬間移動していたのだ。何故ならば消える前と消えた後のボーデンにはどちらも指が無かったからだ。
しかしボーデンの瞬間移動は見せ方が下手で、ソコにつけ込めるとアンジャーは画策した。
アンジャーのタネはわからなかったが替え玉を使い、より見せ方を見事にした「新・瞬間移動」をアンジャーは行い、人気を博するコトに成功する。
しかしボーデンも勿論、黙ってはいない。
アンジャーの替え玉に近づき、アンジャーの片足を不具にするのだった。
ここに至って、アンジャーは一線を越える。
ボーデンの助手の男性を監禁し、命と引き換えに「瞬間移動」のタネを要求する。
ボーデンはアンジャーに、そのタネは「二コラ・テスラ」に会えばわかると伝える。
時のエジソンに敵対していた天才科学者のテスラ(デヴィッド・ボウイ)が、瞬間移動の装置を作ったのだと確信したアンジャーは、狂気に駆られながらテスラのもとへ向かう。
(実際の)エジソン
テスラは、アンジャーの話を聞くと資金が必要だと告げる。アンジャーは、コレまでに「新・瞬間移動」で稼いだ金を惜しげもなく投資する。
(実際の)二コラ・テスラ
その後数日間、テスラは実験を繰り返すが上手くいかない。
アンジャーはボーデンからタネと共に奪った、暗号で書かれたボーデンの日記を解読するが、ソコにはアンジャーを逆撫でする記載が残されていた。
全てウソだ、アンジャー。
テスラは資金が足りなかったから話に乗ったろう?
残念だったな。
アンジャーはテスラのもとに乗り込む。しかしテスラは、確かに装置を作ったことはないが、作ろうとはしている旨を告げる。
そして完成したと。
アンジャーは、テスラの機械を起動する。
数日後、アンジャーはボーデンもいる街に戻ると、「瞬間移動」のマジックを行う。
テスラコイルのような装置の下で消えたアンジャーは、すぐさま劇場の真反対側に現れる。
片足を引きずった姿で。
ボーデンは今度は替え玉ではないとはわかったが、タネが見破れない。
しかも、アンジャーは今度の「瞬間移動」のマジックは100回しか行わないと明言する。
99回マジックを見てもタネを見破れず、焦るボーデン。そして映画の最初の幕へと繋がる。
と、ココまでアンジャーの日記を牢獄で読み進めるボーデン。
その日記の最後にはこう記してあった。
そうだ、ボーデン。
キミは今、牢獄に繋がれて死刑を待っているだろう。
私を殺した罪で。
ボーデンは、後日訪れた交渉人に言う。日記はウソだ、書かれている内容はありえない、と。
交渉人はそんなハズはないと告げ、再度ボーデンの「瞬間移動」のタネを要求する。
ボーデンは、コールドロウ卿と直接話せるならと要求し、そしてその要求は通る。
処刑の日が近づく中、ボーデンのもとに面会人が訪れる。
一人娘が駆け寄り、格子越しに喜ぶボーデン。そして娘の後ろの人物、コールドロウ卿を見る。
ソレは、死んだはずのアンジャーだった。
私の勝ちだ、とボーデンに言い放つアンジャー。ボーデンは錯乱するが、アンジャーに自らの「瞬間移動」のタネを書いた紙を渡し、懇願する。娘には手を出すな、と。
アンジャーは紙を受け取ると、見もせず破り捨てる。キミに勝った今、タネなどどうでもいい。安心しろ、娘は責任を持って養育する。
叫ぶボーデンを尻目に、二人は牢獄を去る。
ボーデン処刑の日。ボーデンは首にロープを巻かれ、処刑台に立つ。
最期の言葉を聞かれ、答えるボーデン。
Abracadabra
その日の夜、アンジャーは瞬間移動装置を地下室に封印していた。
誰かが、アンジャーに近づく。アンジャーがソチラに明かりを向けた時、銃口から火花が散る。
崩れ落ちるアンジャー。そんなアンジャーが見たものは、ボーデンだった。
アンジャーは全てを悟った。タネを明かせば何てコトはない。キミたちは双子で、替え玉だったのか。
なんて簡単な、と言うアンジャーに、ボーデンは言う。
いいや、簡単じゃあなかった。どちらかが指を失えば、どちらかも指を失う必要がある。常に人生をお互い、半分ずつで生きなければならなかった。
コレがマジシャンに必要な“犠牲”だ。そう言うボーデンに対し、アンジャーも反論する。
私も犠牲を払った。周りを見ろ。
周囲には、巨大な水槽も数多く封印されていた。その一つ一つに、アンジャーが入っている。
テスラの発明した装置は、発明者自身の予想すら超えていた。
装置は遠隔地に、装置の内部のモノと同じモノを復元する装置だったのだ。
しかし、「瞬間移動」故に必ず消える者と現れる者が存在する。死ぬ者と生きる者が。
アンジャーは続ける。毎晩、あの装置に入るには勇気が要った。
装置で人間が復元された際、自我同一性がどちらになるかはわからない。
毎晩、死ぬか生きるかのロシアンルーレットを強いられるのだ。
ボーデンはソレを聞き、吐き捨てる。キミは実に恐ろしいコトをして、何も得なかった、と。
アンジャーは驚いて言う。何も得なかっただって?
観客のあの表情・・・。この世は恐ろしい程に決まり切っていて、退屈だ。しかしその観客を一瞬でも驚かせる事ができれば、その時、君も素晴らしいものを観る・・・。本当に知らないのか?
倒れるアンジャー。その拍子に、彼が持っていたランタンの火が地下室に燃え移る。
ボーデンはその場を後にする、水槽の一つ一つを睨みつけながら。
寄り道:哲学的解釈
少し話が大きくなるが、この映画は哲学的に解釈して楽しむコトもできる。
日々、分裂した片方が死に、片方が生きるというのは空想の話ではない。
我々人間は毎日、同じコトを繰り返している、という事実が存在する。
何故なら、この世界では両親から子供が複製され、両親は死に、子供も成長してまた親となるコトによって、受け継がれてきたからだ。
アンジャーの行いを否定するコトはできない。
少なくとも、反出生主義にでもならない限りは。
実存的解釈
しかし、真に述べたいのはそういうコトではない。
哲学の、しかも形而上学的な解釈は『ダークナイト』でも可能だ。
真に述べたいのは、実存的な解釈である。
元々、あらすじとネタバレではあまり触れていないのだが、実存的な熱意の強いのはボーデンの方だった。
ボーデンの方が、マジックのある人生に対する熱意は強かったのだ。故に、アンジャーの妻の手の結び方を頑なに変え、どんな些細なマジックでも“より高みに”上げようとしている。
しかし、その妻に対する思いや、ボーデンに対する感情から最終的に、実存としての高みに立ったかに思われるのはアンジャーである。
アンジャーの瞬間移動のロシアンルーレット的側面は、英国の哲学者であるコリン・ウィルソンが持ち出す、『フロー体験』についてのエピソードに近い。
(コリン・ウィルソンは『新実存主義』の哲学者である)
コリン・ウィルソン
ロシアンルーレットを行い生き残った時、途方もなく人生が素晴らしいものに感じられる『フロー体験』が起こるという。
アンジャーがボーデンに最後に語る「君も素晴らしいものを観る」とは、このコトだろう。
人間の生きる目的のほぼ全ては、この「フロー体験」にあると言っていい。
別に“死からの生還”だけがフロー体験ではない。
「真夏の部活終わりに飲むスポドリ」とか「なんかめっちゃ話が合う人との会話」とか、ささやかではあるけれども『このために生きてんだ』という瞬間。
「ファン待望の新アルバムが発表された瞬間のテンション爆上げ」や「飲み屋帰りの行きつけのラーメン屋の一杯」も立派なフロー体験である。
フーテンの寅さんが「まあ生きてりゃ何かいいことあるよ」と言う時の『いいこと』、これこそがフロー体験なのだ。
(余談ではありますが我々、龍騎士団茶舗はこの『新実存主義』のフロー体験、つまるところ「うわっ! この茶なんか美味えぞ! やったー!」を提供できるお茶屋を目指しています)
アンジャーはこのフロー体験の、つまり実存的人生の楽しみ方の、一つの“極致”に到達したに違いない。
また、“死ぬ”アンジャーはどうなのか、ソレを意識している“生きる”アンジャーは手放しで喜べるのか、という問いがあるが、ソレらも問題はない。
何故なら、死ぬコトによってアンジャーは『妻のもとに旅立てる』と考えていたからだ。
どちらに転んでも問題のないロシアンルーレット、ソレこそがアンジャーの辿り着いた人生に対する実存的答えなのである。
あとがき
私がこの映画を、人生最後の映画になるとしたら観たいと欲するのは、その「生きるべきか死ぬべきか」ともとれる、以上のテーマからである。
私はお茶屋をしているが、お茶の道に入ったのも同じようなテーマのエピソードがきっかけだ。
戦国武将、松永“弾正”久秀は、史実ではないかもしれないが、茶釜に火薬を詰めて爆死した、というエピソードがある。
単純化してはならないが、その動機は、敵対する信長に茶釜を取られたくなかったからだ。
松永“弾正”久秀
このエピソードは、「たかが物のために死ねるか?」という意味を持っている。
しかし松永にとってはかけがえのない『フロー体験』を内包した物だったのだろう。
果たして、そんな茶釜に、そして茶に価値があるのか。
その答えを見つけるため、私はお茶屋をしている。
そう、私という一人の人間の人生すらもココまで変えてしまう、しかし誰にとっても無関係ではない「生きるべきか死ぬべきか」、「生きるとしたら何のために生き、何のために死ぬのか」という問題に対し、『プレステージ』という映画は一つの解答を用意してくれているように見える。
(最後の方ムリヤリですよね。こんなの言っちゃあ元も子もないんだけど、人生最後の時が近づく中、最後の映画なんて見てられるんだろうか(笑))