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死へといざなう心

死人に口なし。死んでしまった人はもはや何も語ることはできない。だから誰かが自死した瞬間のことを誰も知るすべがない。自殺した後で、その人について語られることをどうとらえたらよいか、僕には分からない。

僕は自死の危険を感じたことが 2度ある。それは「死にたいと思った」というのとは少し違った。
僕の経験がどの程度、他の人にも当てはまるのかは分からない。とにかく書いてみようと思う。少し客観的に見れるようになった今の考えも含めて。

1度目は、20年以上は前のこと。まるでさとったかのように死の覚悟が決まった。とても清々すがすがしい気持ちだった。「なぜ今まで考えなかったのか、簡単な事だ。これで全て楽になるのだ」と思い、笑みがれた。
僕は髪を整えて服を着て、颯爽さっそうと出かけようとした。するとすぐ背後で電話が鳴った。どきりとした。その頃、電話にはほとんど出なくなっていた。でもその時はなぜだか受話器をとった。ほとんど電話をもらった事のない友人からだった。「今、どうしてるかと思って。元気にしてる?」「まぁ」曖昧あいまいに答えた。少し話をしたと思うが、覚えていない。
受話器を置くと、汗が止まらなかった。突然震えがきた。自分のしようとした事が恐ろしくなった。僕は踏み留まったのだった。
友人には何か特別な力があって、あの時は虫の知らせで電話をくれたのではないかと、そんな気がいまだにしてならない。

2度目は、6〜7年ほど前。心がざわついて落ち着かず、家を出てあてどなく徘徊はいかいした。「死にたくない。」そればかり考えた。それでも自分を殺しそうで仕方がなかった。たどり着いた橋から下を眺めた。飛び降りたら、確実に死ぬ距離だった。ふるえがきた。しばらくじっと橋の下を眺めた。汗が止まらなかった。だいぶ経ってからそこを離れ、更に徘徊を続けた。何一つ心の安定は得られなかったが、何とか家に電話をして、妻に「帰っておいで」と言われ、とにかく家に戻った。恐ろしかった。

2回とも踏み留まれたのは運が良かったという他ない。こういった時、死なずに済むかどうかは、本人にも周りにもどうしようもない事に思える。経験するまでは、分からなかった。
こうなる前にはいろいろとつらい事があった。しかしそれらがきっかけであるとしても、原因だとはどうも言い切れない。他にもっと辛い経験をして、乗り切れた事は何度もある。

あとあと考えてみて思うのは、つらい事があった時に、ショックを先送りするくせが僕にはあるようだという事です。大変な事態が起きても、その時はたいして動揺しないのです。それが数ヶ月やもっと経ってから、突然うちいて来る。だから何が原因で動揺どうようきたしているのか分からないのです。
これは生きるために、僕が身につけてきた習性なのだろうけれど、それが知らぬ間に自分をむしばんできた。そんな気がします。これに気付いてからは、動揺を来しても少し冷静に自分を観察できるようになったと思います。

そして、心がむしばまれている兆候ちょうこうにも、自分では気付けなかった。僕の兆候はしばしば見る悪夢でした。恐ろしさにびっしょりと汗をかき目覚めます。あまりの苦しさにか、多くの夢は恐ろしさだけが残り内容は忘れてしまっています。明確に覚えているものは、前にここで上げたのですが、おそらくまだマシなものなのだと思います。
このことが問題であると気付いたのは妻です。「この人うなされてるんです」と相談していた医師に告げたのです。おそらく僕は寝ても、きちんと睡眠を取れていない状態だったのだと思います。それでは心身共に悪くなる一方なのは明らかです。しかしなぜだか悪夢を見ている自覚はあったのに、それが問題だとは、僕自身は思っていなかったのです。


過去に見た夢の記録
恐ろしいものもユーモラスなものもあります。



エッセイ

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