誰かの為に
本を紹介して喜ばれると嬉しい。
前に会社が設けたキャリア研修に参加した。講師が簡単な趣旨などの説明を終えた後、参加者はオンライン会議のシステムで、グループに分けられ、キャリアについて話し合う。あまり好きではなかった。知らない人に本音を話すのは気が引けるし、そもそもこの会社の中の未来の話しかできないから。
幸い、グループのメンバーに恵まれた。
勿論、人それぞれに個性があって、そこに優劣はないのだが、どうしても本音を吐きづらくなるような雰囲気を醸し出す人はいるのではないかと思う。それが全員なかったので、講師のいないPCの画面で赤裸々に悩みを皆が話していた。馬鹿にされない。という安心感はこういった場で重要だと感じた。
「仕事の難度は上がって、
成長しているかもしれないけど、
いまいち実感が湧かない。」
「アイデアや思った事が頭に浮かぶんだけど、
どうにも整理仕切ることが出来ない。」
そんなお悩みを一人の子が話していた。
「とりあえず、一日を文章にしてみたら。
積み重なって見えてくるかも。
書きたくなる本があるよ。」
そして前回Noteで紹介したのだが、
さみしい夜にはペンを持てを紹介した。
人の悩みに理解しきれていないままに言葉を発したり、人の意見に勝手に思いつきを被せてしまうのは悪い癖。全然そんな意図はないのだが、「上から目線」と言われて、苦虫を噛み締めたような顔をした回数は数え切れない。
やっちまったなあ。と話しながら思ったが、「何か参考になりそう!読んでみる!」と言われて、素直に僕は嬉しいと思った。もう一人の子も読んでみる。と言ってくれて、「読んで良かった!」と単細胞な僕の心は跳ねた。
僕が悩んでいた時に得た知識が人の為になったのだ。
積み上げてきた事が誰かの為になる。それだけで嬉しい。学生ですら理解しているような事であるが大人になって、その喜びを思い返す事が出来た。
昨今、社会人のスキルアップや社会人教育を勧めるニュースに溢れている。基本的に自分の為に実施するのであろう。ただ、その勉強は誰の為に役立たせるの?と立ち返って考えてみれば、もっと前向きに取り組めるのではないかと思う。見えない第三者を想像する。結局は自分の為には誰かの為に帰結するが、起点を誰の為に?にスライドさせる事も良いのかも知れない。
ただ、誰かの為には全員に強いることは決して出来ない。僕は後輩がメンタル疾患で休職した時に、「きっと今の時間も無駄にならないし、誰かの為にあるのかもしれない。」と連絡してしまった。僕もお薬を飲むようになって、思う事は、誰かの為を思う余裕が心に存在しないことだ。
本を紹介して、人が喜んでくれた。それだけのお話。
ただモチベーションになりゆる微かな根源のようなものが見えたのかも知れない。エンドユーザー自体と距離、また僕が苦にならない事を考えるのも必要だなと思えた。
20代は自分の為に多少の研鑽をしていた記憶はあるが、誰の為に?などは考えた事がなかったなと振り返っていた、今日だ。
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