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空海の言葉を関西弁超訳すると臨場感がハンパない。
空海の本を読む時、僕の中で自動的に関西弁へ翻訳されて入ってきます。
かなり月日が空いてしまいましたが、今回はシリーズ5つめ。
過去の関西弁超訳はマガジンにまとめてあります。
やんわりとストーリー調にはしてますが
記事ごとに完結してますので、どこから読み進めても大丈夫です。
ここでの構成は、
【原文】
関西弁超訳
・・・
(僕の感想)
という順に記載しています。
ほんなら、めっちゃええ感じな空海の言葉の世界を、一緒に遊びまひょか!
<42>蓮
蓮を観じて自浄を知り、菓を見て心徳を覚る。
泥ん中で育ってんのに、泥の色に染まらへん蓮の花っちゅうのはな、俺らにも環境に染まらへんと咲かせることができる清らかな心があるっちゅうことを教えてくれとんねん。
それに蓮の花が蕾であっても、すでにそん中に実があることを見たらよ、俺らの中にもすでに悟りの実があることがわかんねん。
・・・
仏教では蓮華の花が大切にされています。
それは蓮の生態が仏教の教えをそのまま表してくれているからです。
自分への不平不満を社会のせいにしていては、
泥水の中で育って泥色に染まっているということ。
空海はどんな社会の中でも清らかに生きていけると説いています。
蕾の中に実があるというのも、蓮の実際の特徴です。
やっぱりすでに、「悟り」は自分の中にあるのです。
<43>糞
人の鼻下に糞あれば、沈麝等の香を嗅ぐともまた臰しとするがごとし。
お前の鼻の下にウンコがついとったら、めっちゃええ匂いのするお香を嗅いでも臭いもんやろ。
せやから、はよウンコを取り除けや。
・・・
ここで言うウンコとは、心が清らかに生きていくのを妨げるような、しょうもない価値観や思い込みのことです。
ショッキングな喩えですが、とてもわかりやすい。
『大智度論』という論書から空海が引用したのです。
嫌ですねえ、鼻の下にウンコって。
それほどまでに、汚れた価値観は人生を台無しにしてしまうのかもしれません。
気をつけたいものです。
<44>加持
仏日の影衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく。
仏様の放ってくれる慈悲の日光が、俺らの心の水面にその影を映すことを「加」と言ってな、修行するモンが自分の心の水面に仏様の光を感じ取ることを「持」って言うねん。
・・・
加持祈祷の「加」と「持」のことを仰ってます。
空海は「加持祈祷」とは著作の中では言ってないそうなのですが、
仏様と私たちの心が呼応する様を「加持」と呼んでいました。
働きかける力と受け取る力が合わさった時に現れる効果のこと。
人に優しくしてもらったとき、それは仏様の変化かもしれません。
「ありがとう」と受け取る力がなかったら、無駄になってしまうことも。
「加」というものは、実はそこらじゅうにあるのだと思います。
<45>万徳
明暗偕ならず。一は強く、一は弱し。覚知強きときは、すなわち万徳円かなり。愚迷弱きときは、すなわち千殃侵す。
明るさと暗さはひとつにはならへんで。一方が強なったら、もう一方が弱
なんねん。悟りの智慧が強かったら、何やっても、ぜーんぶ徳で満たされるんやけども、アホな迷いが強くなったら、ぜーんぶ災いが心を侵すようになんねんで。
・・・
ものの捉え方の差が明暗を分けているようです。
大きな困難に差しかかったとき
「よっしゃー面白くなってきた!」と言えるか
「なんでこんなことばっかり」と呟くか。
空海はさらに、そのあたりの分別がなぜ起きるのか、次の言葉で断言しています。
<46>我が心
強弱他に非ず、我が心能くなす。この義知らざれば、自他倶に労す。
そういう心の働きの強いとか弱いとかっちゅうんわな、他人の力によるものとちゃうで。我の心によって起きるんや。
この道理がわからへんと、我も他人も心が落ち着くわけあらへんで。
・・・
ええことが次々と起こるんも、悪いことが次々やってくるんも、あんたの心が悟りに憧れてるかどうかやで。迷いとか欲に縛られてへんか?
と、空海は言っています。
「自他倶に労す」というのも面白い。
苦労するのは自分だけじゃないんですね。
不幸に文句を言う人は次の不幸も探し当てる。
その不幸は他人の不幸も大きくする。
愚痴や不平を聞かされるあの感じ…。
<47>鎧
仏は忍辱の鎧、精進の甲をもって、持戒の馬に乗り、定の弓、慧の箭をもって。
悟れるモンは、じっと辛抱するっちゅう鎧をつけて、努力するっちゅう兜をかぶって、生活の決まりをちゃんと守るっちゅう馬に乗って、心を落ち着かせる弓と智慧の矢を持っとんねん。
・・・
勇ましい仏様ですねえ。
仏教では悟りを目指すには古来から、六波羅蜜が必要と言われています。
布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つのこと。
空海のこの言葉では、布施以外の5つが見事な喩えで詠まれています。
(なぜ布施が抜けているかは次項で明らかになります)
辛抱する難しさは、鎧を着る大変さに似ているし
努力するとか頑張るとき、頭にハチマキをするから、頭部に合う。
持戒するのは暴れ馬を手懐けるのと相似するし
弓の張り詰める感じは禅っぽい。
本質を射抜く智慧は矢のように鋭くなくては。
それほどまでに万全な装備をして、どんな相手と戦うのでしょうか。
空海は続けます。
<48>仏と称する
外には魔王の軍を摧き、内には煩悩の賊を滅す。ゆえに仏と称するなり。
外に向かっては魔王の軍隊をシバいて、内側では悩みとか迷いとかっていう悪モンをイテコマス。せやから仏って呼ばれるねんで。
・・・
イテコマスって伝わりますかね。
「イテコマスぞワレぇ」って相手を脅すときのやんちゃな関西弁です。
勢いのあるニュアンスを表したくて採用しました。
魔王の軍とは、心を汚してくるような誘惑のことだと思います。
仏様を語るときに、綺麗事の感じで緩やかに語るだけでは止まらないのがこの言葉の面白いところですね。
六波羅蜜の布施(無条件に施すこと)が抜けていたのは、こういう恐ろしい敵に対しては、あまり役に立たないから。
こんな具合に空海は「悟り」がどういう形をしているのか、バラエティ豊かな喩えで伝えてくれるのです。
<49>憔螟
それ憔螟は大鵬の翼を見ず。
蚊の眉毛に巣を作るっちゅうめっちゃ小さい虫は、大鳥の翼のデカさなんて、わかるわけないわな。
・・・
憔螟とは、空海が作った空想の虫です。
蚊の眉毛に巣って。どんなけ小さいんでしょう。
発想の柔らかさに頭が下がります。
ミクロとマクロを並べることで、私たちの空間の認識がいかに頼りないものかを教えてくれます。
真言密教が想定する「宇宙の大きさ」を前にすると、私たちはまさに憔螟。スケールがとてつもない。
<50>身は花
身は花とともに落つれども、心は香とともに飛ぶ。
人が亡くなったとき、たとえ体が花とともに朽ちてしもうても、その心はたなびくお香と一緒に浄土へ往きはります。
・・・
空海の知り合いのお母様が亡くなった三七日い当たって書かれた文章です。
花が落ちても、いい匂いは残ってはりますでしょ、と。
仏壇にあげられたお香は、亡くなった人のためではなく、仏様へのおもてなしのため。
お香の煙の行き先は仏の国だと仰っています。
これほど短い文章なのに、そのお母様が浄土へ向かう様がありありと浮かんできそうです。
まとめ
いかがだったでしょうか?
今回はとくに、空海の絶品な喩えが豊富だったように思います。
あの勇ましい仏様の姿といい、鼻の下のウンコといい、またひとつ悟りの姿がはっきりしてきた気がします。
食事中の方がいらっしゃったらすいませんでした。
今回はこちらの本からの引用です。
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名取芳彦『心が穏やかになる空海の言葉』宝島社より
ブックオフにて110円でゲットしました。
まだまだ空海関連の本は出版され続けてますし、素晴らしい言葉はたくさん残っています。
あなたはどの言葉が好きでしたか?
教えて頂けたら嬉しいです。
では今回もお読みくださり、ありがとうございました。
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