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【ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?(第4部 選択)】その選択は本当に合理的か?

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〜人は損する事に敏感だ〜

どちらがいいか。
様々な場面で僕らは"選択"をする。自分にとって良い結果になる方、または得する方を選ぶために、あらゆる2択が目の前に現れた時に、僕らは熟考する。そして、良い結果を示す選択を行うのだ。

しかしながら、それらの選択も果たして合理的な判断が出来ているのだろうか?

例えば次の問題をどう考えるか?

あなたはどちらを選びますか?
1.確実に9万円もらえる
2.90%の確率で10万円もらえる

おそらく多くの人が1.を選んだかもしれない。では次の問題はどうだろう?

あなたはどちらを選びますか?
1.確実に9万円失う
2.90%の確率で10万円失う

こちらの問題では、おそらく2.を選ぶ人が多いだろう。

つまりは、人(本人がギャンブル狂などではない限り)は得する場合はギャンブルなどのリスクを回避しがちになり、損する場合にはリスクを追求しがちになる、というのだ。

さらには、次の二つの問題を見てみる。

あなたは10万円もらった上で、次のどちらかを選ぶように言われました。どちらを選びますか?
1.50%の確率で10万円もらう
2.確実に5万円もらう
あなたは20万円もらった上で、次のどちらかを選ぶように言われました。どちらを選びますか?
1.50%の確率で10万円失う
2.確実に5万円失う

さて、おそらく多くの人が先の質問では2.を後の問題では1.を選んだと思われる。
しかし、よく考えれば分かることだが、どちらも1.を選べば同じ確率で10万円か20万円を手に入れられ、2.を選べば15万円を確実に手に入れられた事がわかる。

これらの問題からわかることは、人は何かを選択する際には、「損をする」「失う」という事に非常に敏感になり、避けられる可能性があるならば、リスクを追求する傾向がある、という事だ。

合理的に考えれば、同じ結果だとわかるが、直感的に「失う」や「損をする」という言葉に反応してしまうのだ。ここに、大きな思考のワナがある。合理的と思っている自分の選択は、言葉の表現一つでひっくり返ってしまうのである。

本書で紹介されていた調査実験でもう一つ面白いものがあった。

参加者は医師で、二つの治療法すなわち手術と放射線治療のデータを見せて、どちらを選ぶかを訊ねた。5年後の生存率は手術の方が明らかに高いが、短期的には手術の方が放射線治療より危険である。被験者を2つのグループに分け、片方には生存率に関するデータを、残り半分には同じことを死亡率で表現したデータを見せた。
・術後1ヶ月の生存率は90%です。
・術後1ヶ月の死亡率は10%です。
手術を選んだ人は最初のデータの方(被験者の84%)が、後のデータ(50%)より圧倒的に多かった。

上記の二つはいずれも同じことを言っている事は明らかなのだが、どちらかだけ見た時には、「死亡率」という言葉がインパクトを与えて、選択に大きな影響を与えていることがよくわかる。

人は、ネガティブな要素に反応し、その選択に大きな影響を与えるのである。


〜株式投資の心得〜

選択に関する影響は、株式投資の手法にもつながる。というよりか、この第4部に書かれていた内容の多くが、僕がこれまでに読んだ株式投資の指南書に書かれていた内容と同じ内容が散見されていたのだ。

例えば、保有効果。
何かを"所有している"状態の効用は単一ではない。経済学的に言えば、何かを得る利益と何かを失う損失の価値は同じであるが、人は失うことに非常に敏感なので、保有しているものを手放す苦痛は、同等のものを手に入れる喜びを上回る。これはいわば、自分の買った株を保有している時には、実際の価値以上の価値を自分の中で持ってしまい、なかなか損切り出来ない状態に似ているだろう。

熟練されたトレーダーは、取引での判断をどのように考えているのか。
合理的に考えるのであれば、「手に入れること」と「手放すこと」を天秤にかけるのではなく、「Aを"持つ"こと」と「Bを"持つ"こと」比べるようになる。合理的に考える、という事は、同じ状態のものを比べる、という事とも言えるのではないだろうか。


〜経済学に反論する行動経済学〜

さて、この第4部においては、行動経済学というものの成り立ちも少しばかり見えてきた(そもそも僕は、行動経済学というものがどういうものなのか、さっぱりわかっていなかった)。
著者のダニエル・カーネマンは認知心理学者でありながら、なんでノーベル経済学賞をとったのだろうか?

「経済理論においては、経済主体は合理的かつ利己的で、その選好は変わらないものと定義されている」という事に対して、心理学者である著者のカーネマンは「人間が完全に合理的でもなければ完全に利己的でもなく、その好みは何であれのべつ変わることは自明である」と考えており、経済学と心理学の考えている人間観が正反対であるという事実に驚愕したのだ。それが、カーネマンが行動経済学に足を踏み入れた始まりなのだろう。

行動経済学には「経済学×心理学」というようななんとなくなイメージがあったが、おそらく「人間を合理的と考える経済学に対して、心理学が真っ向から反対した」ところから始まったのだろう。

行動経済学者たちは、経済学者の考える合理的経済人をエゴン類(Econs)と呼ぶべき別人類であって、ヒューマンではないと揶揄する。

僕自身も、経済学の本を読みながら人々の行動を数式やグラフのみで表現されている事に違和感を持っていたが、僕が疑問に持っていたのは古典的な経済学であり、それらは既に別分野の学者から指摘されていたのだった。

(続く)

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