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【悪事の心理学】不正に対して行動出来ずに後悔したことのある人へ
オススメ度(最大☆5つ)
☆☆☆☆
〜不正を前に人は行動出来るのか?〜
例えば、あなたの職場の同僚や上司が何か不正を行おうとしている。それに気づいたあなたは、その不正を告発することは出来るだろうか?
例えば、街を歩いている時に、見知らぬ女性が男性に腕を引かれて無理矢理連れていかれようとしている。その場に居合わせたあなたは女性を助けようと行動を起こすだろうか?
目の前で起こるいじめやハラスメントに対して、あなたはそれを指摘することができるだろうか?
おそらく多くの人は「イエス」と答えたくなるだろう。しかし、現実はそうではない。
実際にそういう現場に居合わせた経験のある人は、なぜか動き出せずにそのまま沈黙してしまった後悔があると思う。かくいう、僕もそういう経験のある人間だ。
本書では多くの人が「自分は目の前の不正を正すために行動を起こすことが出来る」と信じていると書いているが、あくまで米国の話だと思う。こと日本で考えれば、おそらく多くの人が自分について「目の前の不正に対して黙認する人間だ」と考えていると思う。日本の良いところでもあり悪いところでもある「和」を重んじる文化の影響で、何か行動を起こしてその集団が乱れる恐れがあるのであれば、沈黙を選ぶことが正しいと考えるだろう。
本書は米国の心理学者が書いたものだが、不正に対して沈黙し傍観者となりやすいと思われる日本人にこそ刺さる一冊なのではないかと思う。
〜不正の前で人が動けなくなる要因〜
では、人はなぜ目の前の不正に対して何も出来ず沈黙してしまうのか?
本書では大きく4つの要因があると説明している。
まずひとつめは「発生事象の曖昧性」。
人は、異常事態を目の前にしてもそれが本当に異常事態なのか正確に判断することが難しい。例えば、大人に無理矢理手を引かれて連れられている子どもの姿をみて、それが親子なのか誘拐なのか、見ただけではわからない。
夜中に人が倒れていて、酔い潰れているだけなのか体調が悪くて倒れているのかはわからない。曖昧な状況を即座に判断するのは非常に難しいのだ。
二つめは、「個人的な責任の感覚の欠如」。周りにたくさんの人がいると、個人個人がその事態を正す責任感が分散して、結果誰も行動を起こせなくなる、ということだ。電車の中で高校生が殴られていたり、白人警官が黒人に対して不当な暴行を加えているのを周りの人間が傍観している、という動画はニュースやSNSなどでよく見る。これを見た人は「なぜ、周りの人は誰も助けないのか?」と批判するが、おそらくその場にいれば誰もが「自分がやらなくても誰かが助けるだろう」と考えて何もしないだろう。そして、結果誰もが傍観者となってしまう。
三つめは、「社会的規範の誤解」。例えば、男性中心の集団では、その中で女性軽視の発言がなされたとしても、誰もそれを咎めようとはしない。そして、それはその集団の中では「女性軽視は大した発言ではない。普通のことだ」という(誤った)規範が出来てしまう。そして、その集団の中では誰もがその異常な規範を異常と感じなくなってしまう。いじめも似たような状況である。クラスの中でいじめられている者がいたとしても、イジメの当事者以外は「彼はいじめられて当たり前だ」といじめを当然の景色としてしまいそれを異常事態だと感じなくなってしまう。
最後四つめは、「結果に対する恐れ」。不正を告発することへのリスクを感じると人は沈黙を選んでしまう。上司の不正を告発すると、不当な処分を受けたり昇進の妨げになるかもしれない。同僚の不正を告発すれば、「密告者」や「裏切者」のレッテルが貼られ、職場に居場所が無くなるかもしれない。いじめを告発すれば、次のイジメのターゲットは自分になるかもしれない。正義のために立ち上がった結果と行動した際のリスクを天秤にかけた場合、リスクを取らず沈黙・傍観に徹することを選択する人は少なくないだろう。
こうした要因から、人は「善き人間でありたい」「正しい人間でありたい」と思いながらも、いざという時に悪事に対してアクションを起こせない。
しかし、これらの要因を知ることは「不正に対して何も行動できなかった後悔」を持つ人にとっては救いだろう。決して自分が本質「悪」であるから見て見ぬふりをしてしまったわけではない。人は不正を目の前にして「行動出来ない」のである。
〜道徳的反逆者〜
さて、不正を前にして人が沈黙してしまうのは、言ってしまえば仕方のないことであるが、だからといって、不正を放置していいわけではない。不正に対して立ち向かう社会をつくることは、絶対に必要である。
不正に立ち向かえない人の心理がある中でも、組織の不正や目の前の不正に立ち向かうことの出来る人は存在する。
そうした、道徳的・肉体的勇気のある人を本書では「道徳的反逆者」と呼んでいる。
「道徳的反逆者」である人には、特定の性質があり、自分を信じている人、自分の行動で変化をもたらした経験がある人、強い軸を持ち他人からの評価に左右されない人、などである。
そういった性質は生まれもったものでもあるが、著者によればトレーニング次第で誰でも「道徳的反逆者」になることは出来ると述べている。
そして、この沈黙の文化を打破するには、「道徳的反逆者」を社会の中で増やしていくことが重要だと述べる。
本書は自分が「道徳的反逆者」になるための特効薬にはならないが、それでも、「沈黙・傍観してしまった後悔」のある人には「自分も道徳的反逆者になることは出来る」という希望を得ることは出来る。
僕個人としては、権限があればこの本を自分の職場の課題図書にしたい。
「人は不正を傍観してしまう」「不正を正すことは組織全体のメリットとなる」「自分も不正を正す道徳的反逆者になることは出来る」
組織の各員がそんな意識を持つだけでも、その組織は大きく変わるだろう。