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【ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?(第5部 二つの自己)〜結論】認知的錯覚は個人では難しいが集団であれば防げる

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〜持続時間を無視する「記憶する自己」〜

この最終部で紹介されるのが「経験する自己」と「記憶する自己」である。

例えば、ひどく痛みを伴う治療を受けた時を想像すると、手術を受けている真っ最中なのが「経験する自己」、その手術を後から思い出すのが「記憶する自己」である。

この二つの自己の違いがハッキリと分かるのが、本書で紹介された以下のような実験である。

この実験では、参加者は「終わり」と言われるまで片手を冷たい水(摂氏14度。かなり冷たいが我慢できる程度の温度)、その後に暖かいタオルを渡される。
参加者は全員次の二種類の実験に参加する。

1.短時間の実験では、60秒間水に片手を浸す。60秒が過ぎると、被験者は手を水から出すように指示して暖かいタオルを渡す。

2.長時間の実験では、水に60秒間片手をひたすところまでは同じ。60秒が過ぎると暖かいお湯が水槽に流れ込み、その後30秒間約1度上昇した水に被験者は手を浸したままでいる。

この2つの違いは、冷たい水に手を浸している"時間"と、実験が終わる瞬間の"状態"である。
この二種類の実験に参加した被験者に、どちらかをもう一度繰り返すので選んで欲しいと伝えると、約80%の被験者が2.を選んだという。
内容だけ見れば、長時間冷たい水に晒されている2.の方がより苦痛を感じていそうなものなのだが、被験者は苦痛なまま終了した1.よりもいくらか苦痛が和らいだ状態で終わった2.の方がマシだと考えたのだ。

この傾向は、以下のような言葉で本書では説明されている。

・ピーク・エンドの法則…記憶に基づく評価は、ピーク時と終了時の平均でほとんど決まる。
・持続時間の無視…持続時間は、苦痛の総量の評価にはほとんど影響を及ぼさない。


最初に例として出した、痛みを伴う治療で現れる二つの自己について言うと、どれだけ治療の時間が長かろうとも、後の治療に対する評価は、痛みのピークと終了時の苦痛のみで評価されるのである。つまりは、事後で評価する際、「経験する自己」は無視されてしまう。
治療が早く終われば良いとはわかっているものの、後になれば時間は関係なく終了時の痛みの度合いで治療に対する評価は決まってしまう。
極端に言えば、ピーク時の痛みが同じだったと仮定して、いくら短い時間で治療でも終えた瞬間にひどい痛みのある状態であれば「ひどく辛い治療だった」と思うし、ダラダラと長い時間をかけても終えた瞬間にいくらか痛みが穏やかな状態であれば「思ったより楽な治療だった」と、人は評価してしまう。

何かを評価する時、ことごとく持続時間は無視されてしまう。人は、何かを思い返す時にはその経験全てを思い出すのではなく、何かしらのピークとなる"点"で思い出し、評価するのである。


〜「しあわせ」に対する評価〜

そして、この二つの自己は"幸福度"というものに対しても大きな影響を与える。

例えば、離婚した人に「結婚生活は楽しかったですか?」と聞いたとして、概ねの回答が「楽しくなかった」と答えるだろう。たとえ、結婚生活の中でいくらか本当に幸福な時間があって、総量で言えば間違いなく幸福な時間を過ごしていたとしても、本人は「離婚」というポイントを思い出し評価する。

夫に散々暴力を振われ、一人息子も連れて行かれ、失意の中長年過ごした老女が、病床で最期をむかえようとしている時に、一人息子が見舞いに来て感動的な再会を果たして天に召された、という1人の女性の話を聞いたあなたは、この女性の事をいくらか「幸せな人生だった」と思うかもしれない。それは、あなたが最期の感動的な瞬間だけ見ているのであって、その女性が過ごしてきた苦痛の時間は無視してしまっている。

同じような経験は些細な事でもあるだろう。楽しいデートも最後に失敗すれば残念な思い出だし、ひどく退屈でつまらない映画でも驚きのどんでん返しがあれば面白かったと興奮するだろう。

これらも「焦点錯覚」という言葉で説明されている。「記憶する自己」は、ピークや終了時点での出来事にスポットを当てて、全体を評価する。たとえ、些細な出来事であっても、全体の評価に大きな影響を与える事となる。

そして、これは人生における「幸福かどうか」という問いに対しても大きな影響を与えてしまう。高学歴で収入も良い男性が、愛する人と別れたというだけで「自分の人生は最悪だ」感じる事もあるだろうし、孤独で悩んでいる人がお金を拾っただけで「人生は最高だ」と思うかもしれない。幸福に対する人々の考え方は、「記憶する自己」が引き起こす「焦点錯覚」により、幸福の総量を考慮する事なく自身の人生すら評価してしまうのである。


〜井戸端会議や何気ない会話の中で利用したい「認知的錯覚」〜

さて、本書は一貫して、人が直観的に信じてしまう思考の誤り、すなわち「認知的錯覚」について書かれている。

本書の中で、著者は繰り返し「これらの認知的錯覚を自分で防ぐことはほぼ不可能である」と述べている。システム1が僕らの意思決定に及ぼす影響は図り知れない。著者自身も、その影響から逃れる事は出来ないと言っている。

しかし、本書を読んだ今、他人の認知的錯覚には敏感に反応することが出来るだろう

著者が冒頭に「この本は普段の何気ない会話や井戸端会議の中で活用してほしい」と書いていた狙いはここにある。
誤った意思決定を正すのは個人では難しいが、集団であれば可能である。

様々な意思決定をする組織では、個人同士が互いの「認知的錯覚」に気づき修正することで、正しい意思決定に導くことが出来る。

多くの人が本書を手に取り、組織においての意思決定を誤った方向に向かわせないようにする事が、この本の狙いなのだろう。

そうとわかれば、僕はこの本で得た知識を十分に活用しようと思う。他人の判断を冷静に考えて、僕自身がその「認知的錯覚」を修正すればいいのだ。また、この本を多くの人に読んでもらい、僕の「認知的錯覚」に素早く反応してくれるパートナーを見つけることも必要になってくるだろう。

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