【メタファーと身体知の関係】どんな表現だと深く伝わるか
分かるようで分からないメタファーが世の中にたくさんあるなぁと感じています。
例えば対話を「キャッチボール」と現すとか、相手に寄り添うスタンスを「二人三脚で」みたいに表現するとか、この辺が「分かるようで分かんない」だなぁと感じていました。
いや、分かるんですよ。でも分かんないんです。笑
言ってること一緒やんと思わないでください。笑
ちょっと違う表現をしてみると「頭」では理解できているけど「腹」では理解できていない感覚です。論理面では分かっているけど、感性面ではよく分かっていない状態だとイメージしてください。
なぜこんなことを感じるんだろう?と深掘りしていった結果、メタファーと身体知には深い関係があるんじゃないかという仮説に至ったので、具体的な事例を交えつつツラツラと掘り下げたこと書き連ねてみます。
01.よく分かんないメタファー図鑑
まず前提の共有を。
「よく分かんない」とは僕の感性にとっての「よく分かんない」です。
逆に皆さんにとっては「よく分かる」ものがあったり、僕が「よく分かる」ものでも皆さんにとっては「よく分かんない」ものがあると思います。自分なりに考えてみつつ、読み進めてみてください。
ちなみに図鑑と名乗りましたが、完全に過大申告です。笑
▶︎事例① 対話のメタファーとしての「キャッチボール」
最初に取り上げるのは、めちゃくちゃ色んな場面で使われるメタファーですね。使ったことある方、聞いたことある方も多いんじゃないでしょうか。
例えば「対話はドッジボールじゃなくてキャッチボールになるようにしなさい」とか言われたりします。(ドッジボールという追加のメタファーが出てきてしまった。笑)
でも、僕の感覚では「キャッチボール」と「対話」ってイメージが繋がらなかったんです。
「キャッチボール」というボールが手から離れている状態が「人間性から離れた情報」だけやり取りしているように感じちゃったんです。僕にとって対話とは「情報+人間性」を相手と対等な土俵のうえで交わすことだと感じていたので、どちらかと言えば「相撲」のイメージだったんですよね。
で、この感じ方を別のSNSで発信してみたところ「確かに同じように感じる」という人もいれば、「自分はキャッチボールにも人格を感じる」という方もいたんです。
はい、ココが結構面白いところですよ。「感じ方は人それぞれ」とは当たり前のことなのですが、ではなぜ感じ方が人それぞれになるんだろう?と掘り下げることにしたのです。
で、よくよくキャチボールという行為を丁寧に解体していくと、色んな要素があることに気づいたんですね。
例えば、相手がこっちを見ていないタイミングでボールを投げたりしちゃダメですし、狙うのは相手のミットを目掛けて投げる、逆にキャッチする側は多少ボールが逸れたとしても追いかけてキャッチしに行く、そしてお互いに「よっちゃー!」とか「さぁこいー!」とか「ナイスボール!」とか声をかけつつやりとりするはずなんです。だからキャッチボールに人格が宿ると感じる人も、何も間違っていない。
ならばもう一度自分の認識に立ち返ってみましょう。なぜ僕はキャッチボールという行為に人格を見いだせなかったか。なぜ対話のイメージとしてフィットすると感じなかったか。
再度掘り下げてみるとカンタンに気付きました。僕はキャッチボールをしたことがほとんど無かったんです。
だから、先に挙げたようなキャッチボールするときに相手に向ける気遣いや声がけなどをイメージせずに考えていたんです。後からよくよく考えたら、「あぁ、キャッチボールにも人格が宿っていると感じられる要素はあるな」と気づいたわけですね。
だから、僕のなかでキャチボールは「知識」でした。決して「体験」ではなかった。だからメタファーに対する印象も「分かるようで分からない」になったんじゃないかと感じたんですよね。
これが最初の事例。「やったことある」と「やったことがない」で感じ方が変化すると、なんとなくイメージしてもらえたと思います。でも次のメタファーは、また違った意味で混乱するメタファーですよ。
▶︎事例② 相手に寄り添うスタンスとしての「二人三脚」
はい、これもよく使われる表現ですね。相手に寄り添うスタンスを表現するときに使われるメタファーです。伝えたいことは「丁寧に伴走して、しっかりあなたに寄り添ってゴールに向かいますよ」ってメッセージだと思います。
ところで、二人三脚を実際にしたことありますか?
僕が子どものころには運動会あたりの定番だった気がするので、近しい世代であれば一度はやったことある方も多いのではないでしょうか。いまの運動会がどうなっているかはイメージつかないので、もしかしたら知識として知っているだけの方もいるかもしれませんね。
しかし、ここで二人三脚を扱う理由は「知識」と「体験」の違いではありません。そもそも「体験」と「伝えたいメッセージ」がズレているのではないかということです。
二人三脚をしたことある方は、よく分かると思います。そのときの記憶を引っ張り出してみてください。
二人三脚って二人であることで逆に進みづらくなりますよね?
そう、一人の方が早く進めちゃうんです。
二人三脚することで、一人で進むときより早く進めるなんて状況は存在しないのです。それなのになんで二人三脚するのか、二人三脚する目的は「二人三脚すること」でしかないのです。笑
まったく同じ走力のA君・B君・C君がいたとして、A君は単独で走る、B君とC君は二人三脚をする。この条件でB君とC君に勝ち目はあるでしょうか?、100%B君とC君の息がピッタリ合っていたとしてもA君に勝つことはあり得ないと分かるはずです。
「お客様と二人三脚で」
このフレーズから抱く印象は極端に言うと「足の引っ張り合い」かもしれませんよ。少なくとも、二人三脚することで「早く目的地に辿り着ける」とか「楽に目的地に辿り着ける」ことはないのです。
つまり「体験」と「伝えたいメッセージこと」がズレちゃってるのです。本当に「相手に寄り添う」を伝えたいときに「二人三脚」と言うメタファーは適切ではない可能性すらあると思います。
もちろん、ビジネスの文脈として使われる「二人三脚」が、「相手に寄り添うスタンス」であることを僕たちは知っています。でも知っているだけです。僕たちの経験とはズレている。頭で理解するけど、腹落ちしない。そんな現象に陥る可能性があると捉えてみましょう。
▶︎事例③ 人生が180度変化した
これまたよく見る表現ですね。「○○したら人生が180度変化した!」みたいな、大逆転とかパラダイムシフトが起こったとか、そんな意味合いで使われることが多いです。
この言葉に対して僕が感じていたこと。。。
もうこれは画像を見てもらった方が早いと思うので、以下の画像をご覧ください。
人生が180度変わった!
いや、戻るんか〜い!!!
はい。
ある一方向に進んでいる状態から180度進路が変わったとしたら、もとの道に戻っちゃわない?って思ったんです。
えっ!?、You戻りたかったの?
うん、分かってますよ。
人生が「一気に変化するメタファー」として180度と表現しているんですよね。言わんとしていることは分かる。でも分からん。笑
と、ここまでアウトプットしてみると、そもそも自分が「人生」についてどんな感覚を持っているのかも言語化ができてきました。このイメージのズレにあるのは人生観についての異なりであるように感じてきたのです。
僕は人生を「動的なモノ」として捉えています。常にどこかの一方向に向けて進み続けている。その流れの「方向性」を変えることはできても「立ち止まる」ことはできない。そんな「動的なモノ」と捉えている。
だから「進行方向に対する180度」って、今まで辿った道に戻るイメージになったんですよね。180度は確かに「一つの点」の真逆にある場所と言えるでしょう。ですが、それは固定された点の真逆にある場所です。だから、この捉え方は「静的」か「動的」かでも変わってくると感じています。
この画像を含めて別のSNSに投稿してみたところ、ウケながら「その通り!」と言う反応もありました。ですが、また違った角度からの感じ方をしている人もいて、その違いがとても面白かったのです。
人によっては180度を「表裏」でひっくり返す感じと捉えている方や、グーグルアース見ているときに北半球を真上で捉えていたモノを南半球を真上にひっくり返す「視界」を180度ひっくり返すようなイメージや、自分が主体か客体かのような捉え方もあったりで、ホントいろんな捉え方がありました。
つまり「180度」と言う表現は、捉え方の揺らぎがすごくあるんですよね。だからもしかしたら固定したイメージを伝えるのには向いていないかもしれない。
皆さんの記憶のなかにある180度って、温度を伴った経験として思い出せるのは「分度器」とかを使った体験なんじゃないでしょうか。そこから感じていたことを思い返しつつ、どう表現するのかを考えてみても面白いかもしれませんね。
▶︎事例④MVVのピラミッド構造
ここ最近、企業活動においてもMVVと呼ばれる概念を大切にする企業が増えてきました。ミッション・ビジョン・バリューの頭文字を取ってMVVですね。所属している組織でも定めているよ!という方も多いのではないでしょうか。
さて、この概念とセットで語られているピラミッド構造があります。僕はこの構造がずーっと腹落ちしませんでした。
まず、この三角形の構造でなぜMissionが先頭に来るのかよく分からなかったんですよね。目指す未来を指し示すんなら別にVisionでもよかったはずなのに。日本語で「使命」と訳されているのもさらによく分からない。「未来」よりも「使命」が上位概念になる理由がよく分からなかったんです。
でも、この違いは「文化」の方に注目すると「コレかな?」と想像できる一つの理由に行き当たりました。それがMission・Vision・Valueという概念を生んだ「一神教的な文化を反映しているんじゃないか」の仮説です。
そもそもMissionという言葉はラテン語のmittere(ミッテレ)という言葉から来ているようで、この言葉はキリスト教の宣教を意味する福音行為や使節団を指し示すようになったようです。
だから、Missionの先には神様がいるはずなんです。あの三角形状のピラミッドの頂点にあるMissionの先には神様がいて、その神様に誓う行為としてのMissionや神様に与えられる使命としてのMissionを指し示すようになったのではないかと解釈しています。
だから三角形ピラミッドの頂点にMissionが来ているのも、その文化のもとでは理解できます。経営学じゃなくて文化人類学的な観点でこの構図を見る感じですね。
さて、そんな概念が日本に輸入されてきました。
一神教的な世界観ではMissionは神様との接点でもあるため、Missionが起点になります。そのためMission→Vision→Valueという図では下に降りていく動きになるのではと考えました。天上から地上に降りてくるイメージですね。
しかし、日本人はこの三角形をそう受け取りません。
僕たちが三角形の構図から受け取る多くの人が連想するイメージは何でしょう?。
それは「山」ではないでしょうか。
富士山を敢えて挙げるまでもなく、日本は山だらけの土地柄です。三角形のイメージを見たときに山を連想する人も多いはずです。おそらくなのですが、自分の周囲に存在するモノから受ける影響が多いとすれば多くの日本人は「山」から影響を受けてきたはずだと考えられるんですよね。
さて、この構図を山に見立てると何が起こるか。
山は麓から山頂に登っていくモノです。つまり三角形の底辺から頂点に向けて「登っていく」イメージを持ってしまいませんかね。ここに「メタファーから抱くイメージのズレ」が起こっています。略して「メタズレ」と表現しましょうか。笑
西洋的なMission・Vision・Valueの構図では下に降りていくのに、日本的な視点では上に登っていく構図と受け取られしまう。英語文化ではMissionは起点ですが、日本語文化でMissionはゴールになる。
僕自身、MVVの概念を最初に聞いたときにVisionが一番上じゃないの?と思ったんですよね。これは三角形のメタファーに山を見て、その「辿り方」を登っていく時間軸のイメージとして捉えていたから。実際、これまた別のSNSでこの画像を投稿してみたところ「自分もビジョンが一番上じゃないかと思っていた」という声をいただいたりしています。
実は、色んな企業のミッションを調べてみると「いまこの瞬間の行動」を表現しているパターンと「大いなる目的地」を表現しているパターンがあるんです。Missionなんてとても大事な概念のはずなのに、なんで企業によって時間軸の解釈が異なるんだろう?と、ずーっと疑問を感じていたんですよね。
その理由がもしかしたら「メタズレ」によるモノかもしれないのです。捉え方が揺れちゃダメな概念なのに、イメージがズレていることによって揺らいじゃう。同じ日本語であっても人によって捉え方は異なるのに、言語をまたぐとさらに捉え方が揺らいでしまうのは想像に難くないでしょう。
人によってMissionという概念からイメージする「時間軸」が異なるために、いつ何をすることなのかも共通認識が持てない。そんな状態のまま掲げたMissionが、結局のところ機能せずお題目になってしまう状況も耳に入ってきます。
Missionを組織で考えるときには「そもそもMissionって何だ?」を十二分に対話して共通認識を作っとかないといけないんだと思いますよ。どこかの偉い人が書いたネットに載ってるMissionの説明はソレっぽく「理解」はできるんですが、文化をふまえたうえでの「腹落ち」からは遠いようにも感じているのです。
その図が何に見えるかは、文化によって異なります。
月を見たときに何に見えるかも国によって異なるという話は有名ですよね。だから、よその文化の概念を引っ張ってくるときは相手と自分の文化を踏まえて取り入れないとメタズレが起こっちゃうと思うのです。
ホントに厳密なことを言えば「Mission」は「使命」ではないし「ミッション」ですらない。MissionはMissionであり、使命は使命である。翻訳しているものの、文化まで翻訳することはできないから、そこは正しく伝わってこないのです。
02.メタファーと身体知
さてさて、こんな具合で「分かるけど分からないメタファー」がありそうだということを並べてみました。探せばもっとたくさんあるかもしれないです。
大切なことは「人によっては深く刺さるメタファー」も「別の人によってはサッパリ分からんメタファー」になっているということです。伝わり方・イメージの仕方が人それぞれに異なる。
その背景のひとつが「身体知」じゃないかなぁと感じました。
「知っている」と「経験したことがある」の間には、きっと深い断絶があるんです。「経験したことがある」は身体知になって自分のなかに染み込んできます。しかし、経験したことがないモノは自分の奥に染み込んでこない。自分の体験は感情を伴った記憶となるため、僕らの深くに刻み込まれる。そんな感覚です。
この点、問題になるのは「知っていると分かったような気分になる」ことだと思います。
二人三脚と言われれば、伴走するサービスなんだと「知識として理解する」はずです。ただ、僕たちの身体知に結びついているモノではない。だから「深く分かってないけど、なんとなく分かった気になる」現象が発生するのではないでしょうか。
知識として知っていることは「うんうん分かる分かる」と感じている。でも「身体知のない分かる」は頭で理解した感覚であり、感情を伴った記憶とは結びついていません。だからこそメタファーから受ける印象が深く刺さらなかったり、色んな人と解釈が異なってくるのです。
「茹でガエル」というメタファーを多くの方は知っています。でも「茹でガエル」そのものを見たことがあるわけではありません。まして自分自身が「茹でガエル」であると実感したことのある方はそうはいない。だから、これも「分かるけど分かんないメタファー」の典型だと思うんですよね。頭では分かるけど腹では分かってない感覚です。
この表みたいにキレイに僕らの理性と感性が二軸に分かれてるわけではないですが、捉え方として少しは分かりやすくなるんじゃないでしょうか。理性方面で理解できるようなメタファーは、実は深くは刺さっていない。感性方面に対する働きかけがあれば、より強く刺さる。そして感性方面への働きかけとは「身体知」に近づくことじゃないかなと思うのです。
では、「身体知のないメタファーは使う意味がないか?」と問われれば、そこまで言うつもりはありません。
だって「万人に共通する身体知」なんて、そうはないはずですから。経験から感じることも、人それぞれに違う。キャッチボールしてきた人であっても、感じることが同じかどうかは分からない。だから意味がないとまでは言いませんよ。
ただ、逆に「身体知と一致したメタファー」はブーストが掛かると思うんです。
多くの人に深く突き刺さるようなメタファーは、多くの人が持っている共通した身体知を見つけ出して、そこに働きかけるのかもしれません。メタズレではなくメタブーストが掛かる。
単なるメタファーではなく、ブーストが掛かった瞬間「メタファーーーwww」と言えるような状態になるのかもしれませんね。
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