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ビジネスや教育に「魔法のバット」はあるのか?逆転劇が好きな日本社会について、個人的に思うこと。

以前、オズボーン教授が「AIが台頭するとなくなるだろう職業」を発表した。確かに、なくなる職業もあるが、新しく生まれる職業もあるだろう。世の中、新陳代謝は起こるものだと思う。

それをイメージしやすくしたのが、ChatGPTなどの台頭だろう。

研究機関や学校・企業が対応を迫られていることはわかる。私も「こりゃ、使わなきゃ!」と思って、妻にも有料での契約を早々に勧めた。これからは「使わない」という選択肢はない。

今回、そういうことを書きたいわけではない。

最近、「1日でAIのエキスパートになれる」とか「今日から稼げる」のような講座・セミナーの広告がどんどん入ってくる。あるいは、最近まで全然違う仕事をしていたはずの人がいきなり「ChatGPT研究家」とか名乗ったりなど。。これは「機を見て敏」と言えなくもないが・・・どうも、この機会に「大逆転」を狙おうとするニオイがする。

その背景には何らかの人々の心理的なコンプレクスがあるのではないか、ということを強く感じている。これは以前、塾講師をしていた時から感じていたことだ。一度、言語化しておこうと思う。


(1)『涼宮ハルヒの憂鬱』のワンシーンから考える

みなさん、『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品をご存知だろうか? 私は原作は知らず、アニメだけ観たのだが、数年後、その聖地である夙川に住むようになるとは思ってもみなかった。

さて、そこで印象的なシーンがある。ハルヒが夏休みに野球がしたいというので、地元の草野球大会に申し込み、参加する、というものだ。モデルとなった野球場は実在する。

その中で、対戦相手が大学生のチームの時だったと思う。(数年前に見たきりなので間違っているかも・・・) 長門がバットに何やら怪しいプログラムを仕込み、勝手にボールをホーミング(追跡)して、誰でもホームランが打てるようにしたのだ。

「魔法のバット」

実はSOS団(ハルヒのチーム)が勝ったのは実力でも技術でも努力でもない。この「魔法のバット」というアイテムが原因だった。(ハルヒは運動神経抜群なので最初から打っていたが。)

大勝ちして気をよくしたハルヒは、キョンの説得に応じ、次の試合の進出の権利を大学生チームに渡す。その際、大学生チームのキャプテンはその申し出に「ありがとう」と礼を言いつつ、そのバットを買い取ることをオファーする。

これは、私が幼稚園児の時に見た、『がんばれタブチくん』というアニメ映画の中でも似たシーンがあった。タブチがホームランを量産する外国人助っ人のバットにその秘密があるだろうと思って、バットを勝手に拝借してサイズや材質などを分析してみるというシーンにも通じる。成績の差を道具の差のせいにしたいという心理が働いている。

同様の心理は至る所で

受験に成功している人がいたら、その人が通っていた塾を知りたくなる。

これも同じような心理ではないだろうか。

プロ野球など、本気で「勝たないといけない」状況もあるので一概には言えないが、たとえば「野球をする」という活動の中で勝負は一つの要素でしかないし、負けっぱなしだから活動することに価値がないわけでもない。(これはスワローズファンの私の2023年6月初頭時点での「負け惜しみ」ではない。)

何のために練習を続けるのか。「勝つため」という人もいるだろう。否定しない。
でも、「上手くなりたい」「充実したプレイをしたい」「楽しめるためには活躍すること、良い試合にすることが必要だから、それを実現するため」練習をするという側面はあると思う。

勝ち負けが技術や努力と乖離しているなら、相手チームを買収して勝利を譲ってもらうこともありうる。問題は、それを求めているかどうかだ。

(2)塾で見てきたトンデモ保護者

ちょっとリアルな場面を描いていこう。

「いくら払えば合格できる?」

Aさんご一家の話。入塾テストに現れたAさんご一家。正直にいうとテスト結果は芳しくなく、「お断り」するかどうか・・・というボーダーラインだった。あとは、保護者と面談してみて、その保護者が協力的か、ちゃんとこの機会に腰を据えて学習をさせるつもりがあるのか、などを確認してから入塾を決めようかと考えていた。

そこに保護者登場。成績を見せても無関心。こちらの話もよく聞かずに、「先生、で、いくら払えば合格させれるん?△中学校に入れてさえくれたらええねん。金は払う。」

即、お断り。保護者がこのように考えていたら、おそらく本人は自分の希望は親と塾が叶えてくれると思って努力はしないだろう。トラブルが起こりそうな予感がしたし、何よりそういう子が教室内にいると、他の真面目な子たちが混乱する。

塾はエスカレーターではない。そこに乗ってしまえば、勝手に上に連れて行ってくれるものではない。

塾は「道場」

つまり、そこでライバルたちと切磋琢磨しながら、自分の力を高めていく。その機会を与える。私はそう考えていた。

だから、保護者の方にも、「勝者にする(合格させる)ことはできないかもしれないですが、勇者にする(自分の課題に向き合えって乗り越える努力ができる)子にすることを目指しています」と伝えていた。

明確に、価値観の相違がある。

・どんな状況にでも自発的に対応できるように育つための学習機会を提供する教育
・欲しいステータスを与える教育

「いつまでに入塾すれば間に合いますか?」

これも多い質問だ。正直に言おう。これに明確に答えられるなら、低学年での塾のコースなんて世の中からなくなるだろう。

人の成長なんて予測できない。そりゃ、カリキュラムや扱うテーマ・問題というものは設計できるし予告できる。でも、どれだけ理解するのか、使いこなせるのかは、個人差が大きい。

同じ教室で同じ指導を受けたから同じ成績になるわけじゃない
ところが、保護者が求めるのは「学習経験の場」ではなく「成績」になる。だから、同じ費用を払っているなら同じ成績や同じ実績を、となってしまう。

その発想の延長に、「いつまでに入塾すればZ中学校に合格できますか?」という質問がある。

そもそも地頭が良い子で努力家であれば、2年で合格した子もいる、という「成功例」を話すと、「だったら入試の2年前の小学5年生の春でいいですね?」と言い出す始末。

塾での指導というファクター以外のこと(例えば地頭・努力などの本人の本来の資質や家庭環境や応援体制)には目を向けない。そういう人は、「目立つ成功例」にしがみつくので、厄介だ。

人の成長はコスパで測れるものなのか?

思うところがあるので、この点は後で述べたい。ここでは、問題提起だけしておく。

(3)「逆転」依存症

上記の人たちも含めて、多くの人が「逆転」という現象が好きだ。まあ、私もスワローズを応援している時には試合終了までそれを望んでいる。実際、逆転サヨナラホームランなどを見ると興奮する。

しかし、冷静に考えると、それはそういう仕組みのゲーム内でしか起こることが非常に少ない「レアケース」だからこそ価値がある

このレアケースを日常生活で待ち望むと、「守株」のような話になる。

そう。この守株の話から学ばなければならないことがあるはずだ。待っている暇があったら何事か活動していたら得られる経験や知識・人脈などが増えるはずだ。しかし、一定数の人たちが、それよりも「魔法のバット」を欲しがる。

「偏差値35からの難関大学合格!」?

こういうキャッチフレーズが横行している。確かに、大逆転ということはないわけではない。

・元々、頭が良かった子が勉強に本気になっていなかった

ということが、この逆転劇の大半の状況だ。それ自体は時々ある。
それ以外であれば、ドラマにもなった話で、

・難関私立中高一貫校で
・そこでビリだった子が
・難関大学に合格した

というのもあった。この場合、ビリだったのは「一つの科目」でのことであり、しかもビリだとしてもそもそも母集団が賢いのでそれなりの学力があった。そしてその難関大学の入試科目についてはそもそも学年でも上位だった。それでも、「ビリだった私が難関大学に」と言っても、編集はされているが、嘘ではない

嘘ではないが、編集されたドラマ

このようにドラマにするには編集することがある。もちろん、編集・演出が上手な人は敬意を持たれるものだと思うが、実はそれで煽られた人たちは変な判断をしてしまうことも少なくない。イメージ戦略が先んじて、実質的なものが伴っていない。

(4)1日で得られることを学ぶのに数万円?

そこで冒頭で書いた私の問題意識に戻ろう。そう、広告で見てしまった「1日でエキスパートになれる」という文言だ。

私自身、博士課程まで研究を続け、それからも民間企業で研究員をしてきていた。エキスパートとかプロフェッショナルと言われる人たちの人生を賭けた努力と探究を見てきた。そういう人たちが、数千円で研究書を提供してくれている。

「本を読めばいいじゃない?」

と思う。

もしこの宣伝文句のように「エキスパート」になれるほどの密度の内容であれば、マスターするのに非常に高い基礎的な能力が必要だろうし、理解して定着するのに時間が必要になるだろう。

さらにそんな情報を1日で詰め込むとなると、情報過多で理解できないことは目に見えている。

いや、騙されているよね?

そもそも、本気の内容のものはすでにどこかにドキュメントが存在する。書籍として存在していなくても、GitHubなどにあったり。その内容を読めばいいじゃないか、と思う。

さて、ここで上記で書いた「逆転」依存症が姿を表す。
「だって、わかりやすく解説してくれる講座なんでしょう? 私を1日でエキスパートにしてくれる講座なんでしょう?」というわけだ。

以前、『サルでもわかる』という入門書があった。あれは入門書だから良かったのだ。誰でもわかる内容というのは、言い換えると、大したことない内容なのだ。
それをいくら積み重ねてもエキスパートにはなれない。

たとえ、その場に参加したからこそ得られる「武器」があったとしても、それはあなただけが手に入れられたものではない。どんどん他の人にも拡散・流布していく。その後は、同じ武器を使いこなす体力・思考力・発想力の差が勝負どころになっていく。それがわかっていないと、結局、使いもしない武器だけを購入させられ、搾取されるだけになる。

学校で何を学んできたのか?

義務教育では、先生の教え方やクラスメイトの質という環境面の差はあったとしても、同じ環境で同じ内容を学んできた。なのに、学力差は現れた。やっぱり努力して賢い同級生はいた。

ビジネスでも同様だ。

なのに、なぜ自分だけ特別な講座に行けば特別になれると思っているのだろうか。結局は自分自身が成長するしかないということを学んできたのではないのだろうか

現れる矛盾

思うに、私はこういう講座がコスパが良いとは思えない。むしろ、宝クジを買うようなもので、希望を買うものだと思う。

本気で成長したかったら、入門書から始めてもいいから、信頼できる本を読めばいい。あるいは、MOOCなどのオンライン講義を視聴すればいい。ほとんど無料で大抵の領域の勉強はできる世の中だ。

ところが、上記のように人は「コスパ」ということで判断する。だから「1日で」というフレーズが心地よく響く。確かに、普通は数年かかる勉強を1日でクリアできたら最強のコスパだろう。

だけれども、それを実現できるのは、何%の人なんだろうか? そもそもその講座が誠実な講座で、高密度の情報を提供してくれるとして、おそらくそれらを吸収して成長に繋げられる人は、遅かれ早かれ成長する人でありその準備を普段からしている人なのだ。

いい加減に、「魔法のバット」に頼る逆転依存症から抜け出した方がいい。

(5)加速する逆転依存症向けビジネス

このような人の心理につけこむビジネスが目につくようになった。いや、前からあったのかもしれないけれど、私が最近気になり出しただけかもしれない。

昨今、ChatGPTなどが普及して、「魔法のバット」が実現したように思えている人も多いようだ。私の知人も、この波に乗ろうとして「ChatGPT研究家」を名乗ったりしているが、すでに大学の研究者たちや他のビジネスパーソンが有益なプロンプトをどんどん無料公開している中で、いつまで旬を保てるか・・・

自らの「できること」を増やすために、新しいことにチャレンジする精神は素晴らしいが、要は「それが継続的に何か価値を生産しつづけられる仕組みを作れているのか?」「その仕組みを作れるだけの頭脳があるのか?」ということが問われているはすだ

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