夢の日記より

数学者・数学史家。

夢の日記より

数学者・数学史家。

マガジン

  • 父を思う

    父の回想記。遺された日記から拾いました。

  • 『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業

    ●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれますが、そのためには人生行路の細部の諸事実を諒解する必要があります。中先生に関心を寄せる愛読者のみなさまの集う広場を開きたいと念願しています。

最近の記事

エピローグ-回想の『銀の匙』(4)

・叡山へ  夏がすぎて秋11月になり、14日、滋賀の坂本方面から叡山に登りました。かつて中先生が滞在して「銀の匙」の広範を書いたという横川の恵心堂を見てきました。  翌15日、京都から加古川に向かい、鶴林寺を訪ねました。それから播磨町に移り、本荘地区を散策しました。本荘は中先生の友人の山田さんが療養していたところです。少林寺と阿閇(あえ)神社を見学しました。 それから播磨町の町立図書館に行き、山田さんが療養していた時期のこのあたりの土地の様子を調べました。  本荘から土山駅へ

    • エピローグ-回想の『銀の匙』(3)

      ・布川の徳満寺 8月9日の2回目の我孫子訪問に先立って、7月12日に静岡に向かい、静岡市の郊外の中勘助文学記念館を訪ねました。中先生の遺品の数々のすべてが寄贈され、詳細な所蔵目録も作成されています。実際に目にしたいものがいろいろあったのですが、展示されているのはごくわずかでした。わずかな展示物の中に銀の匙の実物がありました。  8月9日、我孫子を離れて布川の徳満寺に向かいました。安孫子から成田線で布佐で下車。駅前でタクシーに乗り、利根川をこえると徳満寺がありました。所在地の住

      • エピローグ-回想の『銀の匙』(2)

        ●高嶋家の行方 半世紀の時を隔てて高嶋家再訪を期待していたのですが、6月14日の我孫子行のおりには果たせませんでした。それでもあきらめのつかない気持ちがあって、8月9日にもう一度我孫子に向いました。高嶋家の所在地と思われる場所には家屋はなく、雑木がたくさん繁っていました。その場所のすぐ近くの喫茶店に入り、店主らしいおじいさんに話をもちかけてみたところ、高島家の消息がわずかにわかりました。高嶋家はここにあったと思われた雑木の土地はたしかに高嶋家の所在地でしたが、当主がだいぶ前に

        • エピローグ-回想の『銀の匙』

          我孫子再訪 中勘助先生の評伝を書く決意を新たにして、いよいよ執筆にとりかかったのは一昨年令和22年の年初のことでした。実際に書き始めようとすると調査不足のあれこれが次々と念頭に浮かびました。調査というのは大きく分けて2種類で、ひとつは文献上の調査、もうひとつは中先生にゆかりの地の現地調査です。文献調査には図書館の利用が有効です。ただし根気よく何度も通う必要があります。現地調査のほうは実際に現地に足を運ばなければなりません。それに、現地に足を運んだからといってどのような収穫があ

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        • 父を思う
          54本
          ¥100
        • 『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業
          189本
          ¥300

        記事

          「評伝 中勘助」の執筆を終えて(43)

          ●参考文献 (2) 【中勘助の著作以外の参考文献】 中勘助、安倍能成(編)『山田又吉遺稿』(大正五年三月二十九日、岩波書店) 阿部次郎、小宮豊隆、安倍能成、森田米松(著)『影と聲』(明治四十四年三月十六日、春陽堂)阿部次郎が書名を提案した。 『ホトヽギス 臨時増刊 五人集』(明治四十四年四月十五日)小宮豊隆、安倍能成、阿部次郎、鈴木三重吉、森田草平の五人が小説を寄せている。阿部の小説は「狐火」。 阿部次郎(編)『宿南昌吉遺稿 日記・紀行・俳句』(昭和九年六月二十日、岩波

          「評伝 中勘助」の執筆を終えて(43)

          「評伝 中勘助」の執筆を終えて(42)

          ●参考文献 (1) 中勘助先生の作品より 【中勘助全集】 『中勘助全集』(昭和三十五~四十年、角川書店、全十二巻) 『中勘助全集』(一九八九~一九九一年、岩波書店、全十七巻 【中勘助】 「夢日記」(『新小説』第十七年、第八巻。明治四十五年八月一日発行。署名「大内生」) 「漱石先生と私」(『三田文学』。大正六年十一月、第八巻、十一月号。仮綴本『銀の匙』に収録されたとき、「夏目先生と私」と改題された。) 『銀の匙』(仮綴本。大正十年十二月十日、岩波書店) 「孟宗の蔭」(『思想』

          「評伝 中勘助」の執筆を終えて(42)

          「評伝 中勘助」の執筆を終えて(41)

          ・友の消息 北島葭江氏は一高の同級、東大の国文出、一高時代からかなり懇親にして小石川の家へも幾度かきた事のある人です。近頃は打絶えてゐます。たしか広島文理大、関西大学などへ教へてゐたのではなかつたでせうか。(昭和二十八年四月十一日付、稲森道三郎宛書簡より)   野上は一高から東大へかけてずつと同じ科の同級だし、一高の寮では同室だつたこともある。多少洗練の足らない稚気があつたせゐかとかく仲間にからかはれる気味があつたけれどそれはお互ひの年頃からいつても五十歩百歩で、穏かな善い人

          「評伝 中勘助」の執筆を終えて(41)

          「評伝 中勘助」の執筆を終えて(40)

          ●野尻湖の島守 明治四十四年(一九一一年)夏の回想 四月十日、健康を害し、衛戍病院に入院した。五月末、退院し、除隊した。除隊後、小石川の自宅にはもどらずに親戚の家で一時期をすごし、それから信州野尻湖畔に向った。安養寺に滞在して一夏をすごした。【第六章 野尻湖の島守】 九月二十三日、野尻湖に浮かぶ琵琶島に渡り、野尻湖の島守になった。島守の日々は十月十七日まで続いた。【第六章 野尻湖の島守】   ・ほおじろの声 立春前後からだつたらうか、和子が度たび、かはいい声をして鳥がないてる

          「評伝 中勘助」の執筆を終えて(40)

          「評伝 中勘助」の執筆を終えて(39)

          ●昭和三年(一九二八年) 椎貝壽郎との交友が始まる。 椎貝壽郎の回想 姉は椎貝さんから便りがあるたんびに、ほらまたぽちぽちさんからだ といつた。  姉とお私はよく椎貝さんと亡くなつた山田を比べて噂した。どちらも習字が好きでゐながらその割には巧くない。どちらも腕押しが強い。山田は奉公して車をひいたからだといつて私はよくからかつた。どちらも芸事については趣味はよく解しながらどちらかといへば不器用なはうだ。但し椎貝さんに関するかぎり「と思ふ」である。どちらも正式に学校教育をうけて

          「評伝 中勘助」の執筆を終えて(39)

          「評伝 中勘助」の執筆を終えて(38)

          ・軽井沢訪問 昭和二十六年(一九五一年) 九月七日、北軽井沢大学村行。野上彌生子の招待を受けて、十二日まで野上家の山荘に滞在した。   ・軽井沢へ 昭和二十六年十一月六日付、石井正之助宛書簡より 小旅行といふのは、八重子(ママ)氏に招かれて北軽井沢大学村の野上氏の別荘へ家内と約一週間行きました。かねて昔地図で浅間の裏の六里ヶ原といふのを見て一度行きたいと思つてゐたところその辺が即ち六里ヶ原なのでいかにも人煙希薄な荒れはてたやうな処が全く私むきでした。もとはじゃが薯を常食にして

          「評伝 中勘助」の執筆を終えて(38)

          「評伝 中勘助」の執筆を終えて(37)

          ●大正七年(一九一八年)  奈良見学旅行/中勘助先生「古国の詩」より その旅行には東京出発の日を確定することができずある日かその次の日といふやうに予報しておいたが最初の日には差支へてたたれず、次の日にいつたら鷲尾さんはわざわざ二日続けて本坊の大きな風呂をたてて待つてゐてくだすつたので予定変更の電報もうたなかつた私はひどく恐縮した。当時私は宿なしの貧寒な書生だし、ふとした人の好意で紹介されたにすぎないゆゑさうした歓待を全く期待してゐなかつたのだつた。風呂にはいつしよにはひつた

          「評伝 中勘助」の執筆を終えて(37)

          「評伝 中勘助」の執筆を終えて(36)

          ・回想記(中勘助)  (昭和二十四年十月三日付、渡辺外喜三郎先生宛書簡より) 過日御申越の略歴大変遅くなりましたが左に、思い出すままに順序なく書きますから、適宜に取捨整理をして頂きます。由緒書きを焼いてしまひましたので凡て朧ろげな記憶によります。  父 中勘彌、天保十三年生、岐阜県今尾藩士。  兄 金一、明治四年生、たぶん今尾生れ。  勘助 明治十八年五月二十二日東京神田に生る。  ほかに姉二人、妹二人。 兄弟六人、金一が長男、勘助が次男といふことになつてゐますがそれは生き

          「評伝 中勘助」の執筆を終えて(36)

          「評伝 中勘助」の執筆を終えて(35)

          ●「島守」より  中先生が弁天島にわたった日や島を離れた日の日付など、そんな細かい事情がどうしてわかるのかというと、中先生の「島守」という作品があるからです。パンフレット「ほほじろの声」に出ている藤木さんの記事も「島守」に取材しています。「島守」は昭和44年の弁天島の生活を記録した作品で、大正13年5月10日の日付で刊行された著作『犬 附島守』(岩波書店)において公表されました。  本陣さんという不思議な呼称の由来も「島守」に書き留められています。本陣さんの本名は池田さんとい

          「評伝 中勘助」の執筆を終えて(35)

          「評伝 中勘助」の執筆を終えて(34)

          ●安養寺 中先生がはじめて野尻湖に赴いたのは明治44年の夏8月のことで、このとき中先生は満26歳です。それまではどうしていたのかというと、大学を卒業したのが明治42年7月。東京帝国大学の文科大学国文科を卒業しました。入学したのは4年前の明治38年9月で、はじめは文科大学の英文科でした。二年後の明治40年9月から国文科に転じました。英文科では漱石先生の講義も聴きました。漱石先生は第二学年の途中の明治40年4月に辞職して大学を離れました。東京帝大の講師と一高教授を兼任していたので

          「評伝 中勘助」の執筆を終えて(34)

          「評伝 中勘助」の執筆を終えて(33)

          ●杉森久英の回想記より  往時の記録採取の続き。日田に出かけたのは昭和52年3月6日、彦山行はこの年の連休中の5月4日です。日田でも彦山でも一泊しました。  それと、補足を少々。まず中先生が大正6年5月はじめから二箇月ほど逗留した茨城の徳満寺の所在地のことですが、前に茨城県北相馬郡利根町布川と書きました。これで間違いというのではないのですが、これは現在の地名表記であり、大正7年当時はまだ利根町は存在しませんでした。当時の表記は「茨城県北相馬郡布川町」。昭和30年1月1日をもっ

          「評伝 中勘助」の執筆を終えて(33)

          「評伝 中勘助」の執筆を終えて(32)

          ●旅の日々の回想 鹿児島から信州へ  和子奥様からいただいたお手紙を年代順に並べて紹介しているところですが、歳月の流れの中で案外いろいろなことが起りました。お手紙の記事のみを手掛りにして、あとは記憶のままに書いてきましたので、鹿児島に出かけた正確な日にち等々、曖昧なままになっています。それで、何十年ぶりかに当時の簡単な記録を参照したところ、いくぶん詳しい消息がわかりました。そのあたりの状況を、お手紙の紹介と合わせて少しずつ報告していきたいと思います。  まずはじめて鹿児島に出

          「評伝 中勘助」の執筆を終えて(32)