高瀬正仁

数学者・数学史家。

高瀬正仁

数学者・数学史家。

マガジン

  • 父を思う

    父の回想記。遺された日記から拾いました。

  • 『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業

    ●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれますが、そのためには人生行路の細部の諸事実を諒解する必要があります。中先生に関心を寄せる愛読者のみなさまの集う広場を開きたいと念願しています。

最近の記事

『評伝 中勘助』の執筆を終えて(7)

・大正八年(一九一九年)十月の東北旅行の回想 昭和三十二年八月三十一日付、今村小百合宛書簡より 角舘を出て生保内(おぼない)の小林区署へ寄つて行き方を教はらうとしたら署長さんが大きな掛図をかけて小林区署といつてもよその大林区署ほどのところ、二万七千町歩も管かつしてゐてこの通り大変な山の中で自分も県界=管かつ界までしか行つた事はないし行つた人があるときいた事もない。青森県側=山頂から向ふの様子は全くわから[な]いし・・・それにそろそろ熊も出ましからとしきりにとめられました。署長

    • 『評伝 中勘助』の執筆を終えて(6)

      ・黒田小学校の光景  中勘助『逍遥』より 四十幾年も前のことだから記憶の誤りはあるかもしれない。私の通つてた小学校はかなり経済に苦しんでたらしい。オルガンの声がよく出ないのでをりをり先生達が素人療治をしてたけれど、私が学校を出るまでたうとう直らずじまひだつた。で、全校の生徒が一緒に歌ふ式日には普通に声の出る小さいオルガンを使ふのだつたが、それも怪我をしたところをさらしで巻いてあつた。晴の式日に繃帯をしたオルガンは随分私達の気を腐らせたものの、今となつてはそれも懐しい。狭つこい

      • 『評伝 中勘助』の執筆を終えて(5)

        ・漱石山房訪問 『漱石全集』第十三巻「日記及断片」より 大正3年(1914年)の記事 此漁師の娘といふ下女は奥歯に物のはさまつたやうに絶えず口中に風を入れてひーひーと鳴らす癖がある。始めは癖と思つたがあまり烈しいので、是は故意の所作だと考へた。或時私が外から帰ると彼女は他の下女に歯が痛いと云つてゐた。然し歯医者へ行く様子も何もなくただ気に喰はない音をさせる。無暗にひーひーと遣る。私が威圧的にそれをとめるのは訳はない。然し今迄の習慣として一つ私の気に触つた事をとめると屹度他の

        • 『評伝 中勘助』の執筆を終えて(4)

          ・中家の歴史と中家の人びとを語る(中勘助の言葉) (昭和三十三年一月二十二日付、渡邊外喜三郎先生宛書簡より) 昨年十一月廿四日のお手紙に私の家の祖先父母兄妹等の事を知らせてほしいとの仰せでしたが、ずつと前に一、二回読んだことのある簡単な記録はなくなつてしまひ現在手元にあるのは持つて疎開した過去帳ばかり、で、僅に残つてゐる不確かな記憶とこと過去帳によつて申上げるよりほかありません。父母兄弟伯母等は皆亡くなつてしまひましたし。 先祖は中閑雪といふ医者、勿論漢方医、元禄二年一月十七

        『評伝 中勘助』の執筆を終えて(7)

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        • 父を思う
          54本
          ¥100
        • 『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業
          190本
          ¥300

        記事

          『評伝 中勘助』の執筆を終えて(3)

          ●中勘助評伝用年譜より 江木ませ子さんのエッセイ 「或夜の感想」 (『婦人運動』第十八巻第九号、昭和十五年十月一日発行) 東京駅にて計らず青少年義勇軍の出発を見送つた。他の一隅には出征者の一人を数十人の見送りがとりまいて歓送歌を唄ひ万歳を称えてゐる。義勇軍の最前の列車には尋常小学を卒へたばかりと見受けられる子供の一隊があつた。  まだ母の懐ろの恋しい少年達だ。そしてこの人達も声明を賭しての遠征なのだ。義勇軍の指導者たちなど僅かの人に静粛に送られて出発した。発車の時には頬に

          『評伝 中勘助』の執筆を終えて(3)

          『評伝 中勘助』の執筆を終えて(2)

          ●回想記 昭和52年(1977年)の記録 ≪我孫子訪問記≫ 『カンナ』第88号(昭和52年11月24日発行)より転載  中野新井町の中家を訪問したのは昭和四十五年の四月のことであるから、すでに半世紀の昔である。はじめて中勘助の著作を手にしたのは高校二年生のときのことで、岩波文庫の『銀の匙』であった。そうして全国各地に遍在すると思われる多くの中勘助の読者たちとおなじように、『銀の匙』ひとつきりでたちまち百年来の愛読者になったのである。『銀の匙』は難しい小説であった。  や

          『評伝 中勘助』の執筆を終えて(2)

          『評伝 中勘助』の執筆を終えて

          ●回想記 ≪野尻湖散策≫ 平成23年(2011年)の記録 9月27日から信州松本に滞在中ですが、仕事があったりなかったりすかすかで、時間に余裕がありますので、信州の北部に向かい、野尻湖を見学してきました。松本から中央線の特急で長野市まで1時間。長野で信越線に乗り換えて黒姫駅まで約40分。駅前から野尻湖まで定期バスが出ていますが、本数が少なすぎて待ち時間が長すぎますので、タクシーに乗りました。10分ほどで野尻湖畔に到着。2000円でした。  野尻湖畔に信濃町公民館があり、その前

          『評伝 中勘助』の執筆を終えて

          『評伝中勘助』覚書補遺

          ●漱石書簡。小宮豊隆へ 明治41年5月6日 牛込区早稲田南町七番地より本郷区森川町一番地小吉館へ 《あの女はほかに行く処がきまつてゐる由御失望御察し申候へども一方にては大いに賀すべき事に候学校を卒業もしないうちからさう万事が思ひ通りに運んでは勿体な過ぎますさうして人間が一生グウタラになります。勝者は必ず敗者に了るも[の]に御座候。ことに金や威力の勝者は必ず心的の敗者に了るが進化の原則と思ひ候。先は右御祝辞迄 草々頓首》 ●「思ひ出すことども」より 《先生の英国留学中の噂は丁

          『評伝中勘助』覚書補遺

          『評伝中勘助』覚書(42) 日露戦争 

          ・「七十年」より 三国干渉に際して。 《私たちまでが「いつかは戦はねば」と思ひ、それがいつしか「十年後には」になつた。》 ・「日露戦争」より 《それは日清戦争直後の三国干渉、引続く各国の利権獲得、特にロシアの旅順、大連、ドイツの膠州湾租借に口火がある。私らはその当時の言葉でいへば「切歯扼腕」した。ロシアと戦つて勝たなければ と思つた。十年後日露戦争が起つた。一高二年生の時だつた。宣戦の詔勅の最初の句がジーンと頭へきた。かねて覚悟し期待してたことながら盤石の落ちかかる気持ちだ

          『評伝中勘助』覚書(42) 日露戦争 

          『評伝中勘助』覚書(41) 愛読者たち

          ・今村小百合さん 「小百合」さんの思ひ出」 ・黒川節子さん 旧姓:西川 「天の橋立」 明治女学校。姉のはつ子さんと同期。明治26年、17歳くらい。女学校に入ったばかり。明治27,8年の日清戦争のころ、中勘助は10歳。 《嗚呼懐かしの小日向台。六十有余年昔の今もなほ時々夢にさえ忘れ得ぬあの水道町のおやしき。築山nほとり、青桐のすがすがしかつた木蔭。お二階の兄君のお書斎。下のお姉様方のお部屋。一つとしてなつかしからぬ処はなく、姉上様のお琴に合せて兄上様の月琴のしらべ。》 ある年

          『評伝中勘助』覚書(41) 愛読者たち

          評伝中勘助』覚書(40) 漱石先生(続)

          明治35年12月5日、ロンドンを出発して帰朝の途についた。 明治43年6月6日、長與胃腸病院で診察を受けた。7月31日、退院。退院後、医者のすすめにより修善寺に転地。修善寺でも胃痛に苦しみ、大吐血。二箇月ほど病床に釘付けになった。徐々に回復し、担架で汽車に運ばれて新橋に着き、担架で胃腸病院に担ぎ込まれてそこで越年した。修善寺に向けて出発したのは明治43年8月6日。この日、11時の汽車で修善寺に向った。菊屋別館。 8月17日、吐血。 8月19日、吐血。 9月4日、午後、阿部次郎

          評伝中勘助』覚書(40) 漱石先生(続)

          評伝中勘助』覚書(39) 岩波茂雄と岩波書店

          ・岩波茂雄 明治38年9月、東京帝国大学文科大学選科入学。 明治40年3月25日、神田佐久間町の井上善次郎(岩波の母の兄。薪炭商)宅で赤石よしと結婚。房州岩井の橋場屋に新婚旅行。 明治40年10月、本郷弥生町の大学裏門の向うあたりの二階の六畳と四畳の間借り。 明治41年2月、木山の近くの貸家に移転。 明治41年4月、大久保百人町の新築の家に移転。六畳二間に三畳、二疊。 同年6月、徴兵検査。丙種合格。 同年5月24日から藤原正夫婦も同居した。阿部次郎、石原謙、上野直昭、山田又吉

          評伝中勘助』覚書(39) 岩波茂雄と岩波書店

          評伝中勘助』参考文献

          『中勘助全集』(角川書店) 『中勘助全集』(岩波書店)全十七巻 中勘助、安倍能成(編)『山田又吉遺稿』(大正五年三月二十九日、岩波書店) 中勘助「漱石先生と私」(『三田文学』。大正六年十一月、第八巻、十一月号。仮綴本『銀の匙』に収録されたとき、「夏目先生と私」と改題された。) 中勘助「先生の手紙と「銀の匙」の前後」(『中央公論』。昭和二十七年一月号) 中勘助「孟宗の蔭」(『思想』、第十四号、大正十一年十一月。第十五号、大正十一年十二月。第百二十六号、昭和七年十一月。第百二十九

          評伝中勘助』参考文献

          『評伝中勘助』覚書(38) 『思潮』から『思想』へ

          ・大正6年5月1日、『思潮』創刊。主幹、阿部次郎。同人、石原謙、和辻哲郎、小宮豊隆、安倍能成。大正8年1月、『思潮』終刊。 ・大正10年、岩波茂雄が『思想』発刊を思い立ち、10月1日、創刊号が刊行された。

          『評伝中勘助』覚書(38) 『思潮』から『思想』へ

          『評伝中勘助』覚書(37) 江木ませ子さん

          ・中勘助「呪縛」より 《五十年にもなる。一高のとき私は新入生の一人と友達になつて、毎週一二回は訪問しあふといふほど近しくした。楽しい期待に胸をふくらませていつて案内を乞ふと予て噂にきいた親戚の令嬢といふ美しい人が小走りに出てきて取次いでくれる。はたち前後か、背の高い、強くひいた眉の下に深くぱつちりとした瞳、錦絵からぬけでた昔風のそれではなく、輪郭の鮮明な彫刻的な美人だつた。しづかにあいた襖から小腰を屈めて現れる姿、膝のまへにしとやかに両手をつく。さてその取次ぎぶりだが、まるで

          『評伝中勘助』覚書(37) 江木ませ子さん

          『評伝中勘助』覚書(36) 漱石先生

          ・安倍能成『我が生ひ立ち』より 《これは大学一年を終へた夏休だつたと思ふが、勧め上手の高浜さんはその後小宮、野上など漱石門の人々も、漱石先生自身をも下掛宝生(しもがかりほうしょう)に入れ、宝生先生が漱石山房へ出稽古にいつたこともあつた。  野上豊一郎が漱石先生のところへ謡にゆかうといふので、始めて漱石山房を訪ふたのが、高等学校の一年の教場以来の初対面であつた。先生が三十八年以来「ホトトギス」に「吾輩は猫である」を発表して、文名一時に挙つて以来、駒込の家から西片町十番地、それか

          『評伝中勘助』覚書(36) 漱石先生