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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業

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●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれますが、そのためには人生行路の細部の諸事…
中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいた…
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (1)

●『銀の匙』の広場を開く  中勘助先生は幼少年期を懐かしく回想する小説『銀の匙』で知られ…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (2) 中家の人びと

 中先生は明治18年(1885年)5月22日に生れました。生地は東京府神田区東松下町七番地で、こ…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (3) 神田界隈の回想

次に引くのは「銀の匙」からの引用です。生家と生地が回想されています。 《私の生れたのは神…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (4) 伯母さんの消息

 中先生が勘助と名づけられたのは父の幼名勘次郎から一字をとったのであろうと思われます。 …

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (5) 小日向水道町九十二…

 明治22年7月、中先生が4歳の年の夏に中家は山の手に転居しました。次に引くのはこの時期の転…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (6) 黒田小学校

小日向水道町に移ってから年が明けてまもないころ、明治24年1月11日の夜、祖母のみきが亡くなりましたた。満79歳です。次にひくのは「銀の匙」に描かれた祖母の思い出です。 《私は朝々早く起きて草茫々とした明地を跣で歩かせられる。ぺんぺん草や蚊屋つり草や其處にはえてる草の名をおぼえるだけでも大變な仕事であつた。その頃八十近くであつた祖母も坊主頭に毛繻子(けじゅす)の頭巾を被つて杖をつきつきいつしよに露をふんで歩く。祖母は性のいい三つ栗を裏の垣根のくろへ一粒づつ三ところに埋(うづ

『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (7) 独逸学協会学校

 中先生と兄金一は仲の悪い兄弟でした。少年の日の中先生と14歳年長の兄の消息はさまざまな衣…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (8) 中金一の医学修業

 中金一が入学した時期の一高は三部制で、第一部、第二部、第三部に分けられていました。一高…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (9) 星を見る少年

 明治34年7月に中金一が東京帝大の卒業証書授与式に臨んだころ、中先生は数えて17歳で、府立…

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詩篇「いさき」

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (10) 関口の大洗堰の別…

 兄に連れられてある海岸へ連れていかれたこともありました。そのおりの情景は「つむじまがり…

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『小国民』第六年、第四号

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (11) ドイツ留学

 医科大学を卒業して青山内科の助手になった金一はまもなく洋行することになり、文部省から「内科學研究の爲メ満三箇年獨國ヘ留學ヲ命ス」という辞令が交付されました。辞令の日付は明治35年8月1日。この年の3月末日に東京府第四中学を卒業した中先生は7月に入って高等学校の入学試験に応じ、合格発表を待っているところでした。辞令が出てから出発するまでの期間はごく短く、9月5日の官報で「八月二十三日出発」と報じられました。文部省外国留学生の資格で、期間は満3年間と定められました。